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                            遊 庵 散 人
         ---------- China,20years ago ----------
           殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
         1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
    
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<< まえがき >>

中国汕頭(スワトゥ)。広州から東約150km、南シナ海に面した港町です。

この名を国際的に有名にしたのは、極めて優美で繊細な汕頭刺繍、汕頭レース
が著名であり、その生産は、汕頭を中心にした奥地50kmの半円状に点在する
村々で生産されている様でした。
たまたまその積出港が汕頭であった為、一躍汕頭の名を国際的にしたのでしょ
う。佐賀県で産する陶磁器が伊万里焼と通称されるのと同じです。

中国は細かいシルクによる人技と思えない刺繍は、何千年の歴史を持ち中国歴
代皇帝の宮廷文化を中心に伝承されてきましたが、それらの主産地は蘇州を中
心にした江南地方の文化でした。
それに対し華南の汕頭や華北の山東省の各地で生産される特殊レースの歴史は
比較的新しく、どちらも19世紀欧州各国が中国を浸食しだし、その時同行し
た宣教師達の手により、欧州の技術が導入された様です。

その汕頭レース(かぎ針レース)の事は、日本では戦前の事は知りませんが、
戦後の経済安定期に入った頃より、驚く程の高価なハンカチーフやテーブルク
ロスが百貨店のケースに飾られ、又お洒落な香港土産として珍重されました。
恐らく戦後最高級な「Made in China」では無かったでしょうか。
その為業界人である我々の頭には、どこか汕頭イコール高級感のイメージを強
く抱いていた様でした。

更にこれは私の個人感情ですが、当時より更に遡る事5年前よりその前年迄の
台湾業務で、絶えず西の方、大陸の空を眺めていた台湾海峡を、今度は大陸側
から東の空を眺めたいという多分に感傷的な思いを持ったのも事実です。
しかし結果的にそれは無理でした。
何故なら汕頭の港は外港ではなくすぐ対岸に島(或いは岬)があり、その為台
湾に対する海峡の海は残念ながら望むべくもありませんでした。

中国は79年7月、広東、福建両省に対外経済活動の特恵地区を設ける事を発
表し、80年5月に深セン、珠海、次いで汕頭、廈門をそれに指定しました。
我々の汕頭入りは79年3月ですから、それより一足早かった事になり、前回
のあとがきにも申しました様に、繊維製品の業者としては、正に一番乗りで現
地へ入った事になります。
勿論広州で数日を費やし、汕頭への旅行許可証を得てのスタートでした。

今回より数回に亘り連載しようとする汕頭レポートは、文革の混乱期が一応終
焉し、しかし経済改革の着手も行われていない、1979年より数年間の中国
農村地帯の一般状況について、私の記憶のまま述べていきたいと考えておりま
す。
恐らくそれは現在の経済特区として大発展を遂げた同地区を、御存知の方たち
にとっては、正に想像し得ない程の大きな格差を感じていただけることと思い
ます。
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<< 本号の内容 >>

◆◆ 汕 頭 入 り

  機中雲が充満する飛行機

  豚が悠々闊歩する宿舎
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  機中雲が充満する飛行機

ソ連製双発プロペラ機アントノフが、広州空港を離陸した。
1979年3月だった。

全く上手い具合に、その2週間前より週2便の広州ー汕頭間航空路線が開設さ
れ、お陰で一時間足らずで目的地に到着する事が出来た。
それ以前ならバス便のみで、広州を出て汕頭まで約10時間以上を要したとの
事。プロペラ機は可成りの低空を飛び眼下に山並みが続く。
ここをバスで越えるのは大変なことだったろうと思う。

当時中国民航が使用していた航空機は、全てソ連製であり、北京ー上海ー広州
等のメインルートはイリューシンが就航し、ローカルラインはこのアントノフ
が多く就航していた様に思う、約50人乗り程度の航空機だ。
ともかく20年に亘る中国業務期を通じ、最も難儀した事の一つは航空機事情
にあったのだが、その事は後日改めて述べたいが、今回は10時間のバス移動
が1時間に短縮できた事に感謝した。

当時の航空機の乗客は公用の中国人、それから圧倒的に多かったのは華僑と、
後は我々の様な極く小数の外人である。
私用の中国人には航空券の購入は許可されていなかった。
ついでに申し上げると、当時一般の中国人にとっては、私用による長距離列車
旅行も、更に旅館での宿泊も、自分の所属する業務機関(単位と称する)の発行
する旅行許可証が無ければ、個人旅行は殆どが無理とされていた。

そして国内の航空機を利用して何時も感じる事だが、華僑も含め中国人は空港
で荷物を預ける事が非常に少ない。
出来るだけ両手に抱え手荷物として、機内へ持ち込もうとする。
その為機内の荷物棚は何時も満杯で、特に小型機の場合、服務員がその整理格
納に苦労する。
これは大切な荷物を簡単に人に預けない、余り他人を信用せず、自身で自己防
衛に徹するという中国人の本能的なものだろう。

更についでに前記と共通する問題だが、機中で起きた全く中国人らしい、興味
ある事件について述べたい。
何度目かのアントノフによる汕頭フライトの際の出来事だった。

この飛行機の荷物棚は、電車と同じ様に棚だけで、大型機の様に荷物棚に荷物
落下防止のカバーがない。
私の座席の数人前に座っていた華僑らしき男性客が、多分故郷への土産にする
のだろう扇風機を裸のまま、頭上の棚においていた。

軽量の飛行機は常に上下動をしながら飛んでいる。
ある瞬間に揺れが大きくなった途端、荷物棚の扇風機はその華僑の後部座席の
中国人の頭を直撃した。
うっすらと血のにじんだ頭を抱え、客は大声で服務員に文句を言う。
服務員は慌てる様子もなく「飛行機が揺れたのだから仕方がない」と言ってい
る。
華僑はその傷ついた客に謝るでもなく、しきりに落ちた扇風機に異常が無いか
検査に夢中になっている。

日本人ほど「済みません」という言葉を安易に使う人種もないと思うが、中国
人ほど「済みません」という言葉を殆ど使わない人種もないのではないだろう
か。
それは彼等はその言葉の意味を良く知っており、それを口にすることにより、
責任が自分に負荷されるのを、絶対に避けようとする本能から出ているもので
あって、やはりこれも五千年の戦乱の世を生き抜いてきた中国民族の自己防衛
本能だと思う。

低空飛行を続ける飛行機でも、雲が低いときはその中へ突っ込んでいく事があ
る。
そしたら客席の天井辺りから、雲が機中に入り込んでくる。
これが雲なのか水蒸気なのかその辺は判らないが、ともかく暫くその状態が続
く時など、客席全体にその雲は濃密に充満し、ひどい場合後部の乗客の姿も見
えなくなる。
さすが最初は驚いたが、馴れてくると「又雲が入ってきた」等と同僚と笑える
様になった。

当時この航空機はソ連製だが、今は生産しておらず、故障しても部品の補給が
出来ないため、一機づつ壊してその部品を使い修理するという様な、冗談らし
いことを聞かされた。
しかし後日このアントノフは、共産圏では近距離用として随分活躍した、優秀
な性能の飛行機と聞いて驚いた。
その後ジェット化される前の、北京ー青島、北京ーフホホト等のフライトで随
分お世話になった思い出深い飛行機だ。

大きなヤカンを持った男性服務員が、客席を廻りプラスティックのコップに茶
を注いで廻る。彼の服装は綻びたランニングシャツに半パンツ。
「これでもやはりパーサーか」と同僚と苦笑する。

やがて機は高度を下げ、一面田園地帯の中の原っぱの様に見える、汕頭空港に
着陸する。
滑走路近くに放牧されている牛の群と、これがエアーターミナルかと思える小
屋が一つ、ポツンと立っているのが印象的だった。

  豚が悠々闊歩する宿舎

「汕頭には未だ外賓(外人客)を泊めるホテルは有りません」

出迎えに来てくれた公司の人は、マイクロバスの中でまずこう説明した。
当然だろう。ここは外人非開放地区なのだ。
郊外の空港から少し家並みが続く地区に入っても、所々に2〜3階立ての煉瓦
づくりの建物はあっても、それ以外は白い漆喰塗りの家が並んでいるに過ぎな
い。それも多分この表通りに面した部分だけで、その後は農地であろう。

その証拠に、市中メインロードのあちこちにアヒルの群が歩き回っている。
我々が案内された汕頭での宿舎「華僑回郷招待所」は、そんな通りに面してい
た。
その名の示す通り、此の地方出身の(共産中国になったとき香港辺りへ逃げ落
ちた)華僑達が、故郷へ戻った際に利用する為の宿舎である。
バスがその門をくぐり宿舎の広い敷地に入った途端、我々を出迎えてくれたの
は悠々闊歩する巨大な豚二頭だった。

彼等華僑は文革終焉まで故郷の土は踏めなかった。
密かに戻った場合、彼等を待っているのは、故国を捨てた極悪人としての重罪
だった。
勿論残った一族も身を縮めて生活していた。
文革の時代が過ぎ、当初は恐る恐る故郷へ戻った彼等に、今度は思わぬ歓迎が
待っていた。
それは、香港より持ち帰ってくれる国内では入手不可能な物資の数々への期待
だった。
残った家族も亡命した身内を誇りにするよう変化した。

ともあれ、そうして建てられたのが「華僑回郷招待所」である。
広い敷地に煉瓦作り四階建ての宿泊棟と、平屋で学校の講堂風の二棟があった
様に記憶している。

なにぶん華僑は郷党意識が強い。
一族多数を引き連れての回郷を迎えて泊まれる様に一、二階は一室十人は寝ら
れる程の大部屋が並んでいる。
部屋の入り口もカーテンで仕切られ、中は丸見えだから丁度旧式病院の大部屋
を見ているようだ。

我々には幸い最上階のツインルームのシングルユースを用意してくれていた。
しかしバスは無い。
シャワーはあっても湯の出るのは夕方の数時間らしい。
トイレはあっても水が流れない。
しかしこれはもう慣れっこだ。

当然エレベーターは無いから、何時も携行している大型旅行カバンやパッキン
ギケース数個に詰め込んだ、100kg以上のサンプルの、糸や製品の上げ下ろ
しはかなりの重労働だった。

住の次は食である。

夕食は講堂風建物が食堂となる。
百人以上は居たであろう華僑止宿者達は、講堂の平間に並べられた、多数の丸
テーブルで自由に席を取り、例の通り大声で特徴有る広東語をわめきながら食
事している。
我々の席は別格で講堂正面、一段高い演壇中央にポツンとテーブル一つがおか
れている。
小さな衝立で仕切られてはいるものの、まるで衆人環視の中で食事する心地で
落ち着かない。

料理はすべて定食であり、自動的に数種の広東料理が出てくる。
台湾や香港で食べ馴れている筈の、広東料理とはかなり違う、味覚を表現する
のは難しいが、いうならば味に洗練さがなく雑である。

しかしこれが本場のルーツの味というのだろうか、一寸私の口に合いにくい。
それ以来缶詰数種と海苔の佃煮、お茶漬け用ふりかけが、出張の必携品となっ
た。そえさえあればご飯と一緒に腹は膨れる。

華南の三月は初夏である。
喉も渇き当然ビールが飲みたい。
出されたビールを一口飲み、思わず口から吐き出しかけた。
全然冷やされていないのだ。

いくら何でも外におかれ初夏の陽に暖められたビール等飲めたものではない。
先天的に中国人は冷たい飲料を飲む習慣がないし、これは中国という広大な大
地の中で生存する為の何千年に亘る、自己保全の為からできた一つの生活習慣
というものだろう。

数日間の工場指導でここでの滞在を予定している我々は、服務員に対し明日の
夕食には必ず冷えたビールを用意する様呉々も依頼した。
翌日、田舎道を一日中走り工場を廻り、疲れ切って夕食の席に着いた。
服務員は、どうだといわんばかりに、見るからに冷えたビールを食卓に持参し
た。
早速一杯と栓をあけたら、何と今度は完全に凍結していてコップに注ごうにも
ビンを逆さにしても一滴のビールも出てこない。

服務員を呼びつけ、解凍する様に命じた所、一旦食卓から下げたビールを数分
の内に又持参したのに驚いた。
確かに解凍している様である。
早速コップに入れ口にした途端又驚いた。
全く水っぽくビールの味がせずとても飲めたものでない。

どうしたと聞くと、解凍する為ビンの口より湯を入れたのだという。
何をか況わんや。
彼女らはビールを飲んだ事もないので、当然味も適温も判る筈がないのだ。

ついでに朝食について書く。

朝食は華僑達と共に講堂の平間で食べる。
よく香港や台湾で食べる広東式朝食だ。
漬け物、点心、油条等それにお粥である。
ただお粥はテーブルの並ぶ通路の土間の上に、大きな盥に入れられ所々に置い
てあり、それを各自が茶碗に入れる。
だから遅く行くとお粥は米粒が無く完全に重湯状態になっている。

一週間滞在し計算した食費は、朝晩1食平均丁度2元(¥240)だった。
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<<あとがき>>

本文に書きました様に、78年頃華僑の里帰りが認められ、それまで共産中国
を逃れて、香港市内やその周辺に住みついた多くの華僑達が、一斉に里帰りを
始めました。
私は丁度79年の旧正月(春節)前、香港より広州に入った事がありますが、
その時の香港から羅湖までの列車は、正に超満員でした。
さらに彼等は深センや広州の駅前から、バスに乗り継ぎ帰郷するのに、駅前は
ごった返していました。

彼等を見ていると、亡命しそれなりの成功を得た人もおれば、亡命当時さなが
らの服装の人もおり様々ですが、何れも両手一杯に持てるだけの土産は持ち、
故郷へ錦を飾る思いが、我々にも良く伝わってきました。
中には大金を掴んだ人達が、レストランで郷党一族を多数招き、豪勢な宴席を
はる光景も散見しました。
こういうグループがその後数年で、沿岸工業地帯を驚異的に進展させる起爆剤
となったのです。

これも「前書き」に書きましたように、中国政府が広東、福建両省を貿易特区
にすると発表したのは1979年。
そうして深セン、珠海、汕頭、廈門を具体的に指定したのは80年でした。
その呼びかけに反応し投資を始めたのは、やはりその一帯を故郷とする華僑資
本であったのです。
我々が始めて汕頭に足を踏み入れて約3年後、華僑の進展の現実的状況を目の
当たりに見ておりました。

日本は当然のこと、欧米各国も、中国の投資呼びかけに殆ど反応しませんでし
た。
それら投資に対する中国政府の法整備も遅れおり、投資に対する見返り、或い
は保証の問題も曖昧なままで、更に朝令暮改のリスクもあれば簡単に手が出な
いのも当然のことでしょう。
まして日本の商社のように、オーナー社長でもなく組織で運営されている法人
とすれば、当時の中国に対する投資に逡巡するのは明白でしょう。

しかし華僑は違います。
オーナー経営であるということもさることながら、彼等は、自分自身の故郷に
投資するのと同じです。
例えば宮崎県出身で東京で成功した社長が、宮崎に自社の工場を作るのと同じ
ようなものです。
郷党意識の強い華僑とすれば、親兄弟や身内の住む故郷への投資はこの上ない
名誉な事です。
私は3年間に亘る現地での仕事を通し、現地の人々と華僑の骨肉の結びつきの
強さを、嫌というほど知らされました。

                           遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
紅い中国の時代の目次に戻ります







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