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                            遊 庵 散 人
         ---------- China,20years ago ----------
           殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
         1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
    
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<< まえがき >>

「黎明期に於けるに日中貿易」と題した書籍が出版されております。

それは1946年より1979年に至る、正に日本の敗戦直後より、ようやく
日中国交正常化を経て、中国が解放路線に政策転換を踏み出した時期までの、
真に本のタイトル通りの新中国の黎明期に於ける日本の企業戦士達の奮闘の記
録が詳細に綴られています。

同時に国交が無かったというより、あくまでアメリカ寄り路線を突き進んでき
た日本としては、中国にとっては敵対国ともいえる存在であっただけに、その
厳しい環境の中での貿易業務が如何に苦しいものであったかは、この本を一読
すればある程度の理解は出来ても、現実は今の我々の想像以上の厳しさであっ
たと思います。

私の思い出の記録は1978年からスタートしており、丁度上記の記録はその
以前の時代の貴重な記録という事になります。
幸い我々が訪中した頃、極少数ですがその黎明期の厳しい時代を経験してこら
れた先輩の方々がおられ、それらの御経験はまだ声高にしゃべれるような時代
ではなかったのですが、お伺いした思い出があります。

一般的に、文革時代の悲惨で残酷な歴史の一齣を書き暴いた実録や小説は現在
数多く出版されていますが、その時代現地に駐在された極めて小数の日本友好
商社の方達も、敵対国家の人間として極めて非人道的な圧迫や暴力まで受けら
れた悲惨な話を、未だ話すのを恐れる様な口調で私に語られたのは忘れられま
せん。

特に知る人ぞ知るともいうべき「第一通商事件(一通事件)」は、この本に当時
の責任者の方の手記により掲載されていますが、スパイ容疑で約2年以上北京
新僑飯店に監禁され、ホテル内の自由はあっても、一歩の外出も、一通の日本
への手紙も許されず、24時間紅衛兵の監視下で空しく辛い年月を過ごされた
そうです。

その容疑も、長城や天安門で撮った記念写真や、更に、日本の本社に報告する
北京の近況レポートまで、全てがスパイ疑惑の対称とされ紅衛兵や公安官 に
よる厳しい尋問により、それらを全て本社の指示によるスパイ行為と判決され
た結果です。
それらは文革終了後、中国政府より正式謝罪があったそうですが、正に悲劇で
す。

外出できるのは月一度日本よりの送金があり、それを受け取りに行くのに、車
の後部座席に両側を紅衛兵にガードされ、銀行へ出かける時のみだったそうで
す。
そうしてそのお金でホテルの宿泊費や飲食代に支払われるわけです。
監禁されながらその費用を全部日本側に負担させるのは、何ともやり切れませ
ん。

これらの事はその本にも書かれていますし、私もその被害を受けられた方より
直接お聞きする事が出来ました。
その方はその頃中国の街中を走っていた中国製乗用車「上海」を見る度に、両
側を紅衛兵に抱きかかえられる様にして、銀行へ行った時を思い出しぞっとす
ると述懐しておられ、その胸の傷の深さを痛切に感じました。

「前置き」が少し長くなりましたが、やはり中国人がよく言うように「井戸の
水を飲む人は、井戸を掘った人の苦労を忘れるな」
やはり今日の発展拡大した日中貿易の最初、正に黎明期にこの様な偉大な先輩
達の、余りにも知られていない過去の辛酸を、改めて知っておくべきではない
かと思い書かせていただいた次第です。
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<< 本号の内容 >>

◆◆ 法治国家への道

  人民裁判から四人組裁判へ
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  人民裁判から四人組裁判へ

1981年春、私は広州市内の公司での商談を終え、東方賓館に戻ってきた。
そうしてエレベーターホールの柱に、大きな張り紙が出されているのを見た。

文字は英語と中国語であったが、一応私がその文意を理解したのは「今夕7時
より四人組裁判のテレビ放送があるから見る様に」という宿泊者への注意書き
であった。

私はその意味を理解しかねた。
文革という多分に国家を破滅に導くような大混乱を指導した元毛沢東夫人江青
を始めとする首魁四人の裁判のテレビを、何故外国人にまでわざわざ「ご覧下
さい」と英文宣伝する必要があるのだろうか。
むしろ自国の恥部を晒すようなことは、おかしな事ではないのだろうかと思っ
ていた。

何時もの様にホテルの夜は何もする事はなく、部屋で本も読めない暗さも改善
されないまま、普段は見ても全く面白くもないテレビだが、一応スイッチを入
れてみた。
画面には法廷が映し出されている。
新聞で見慣れた四人組の姿が見える。
私がおやっと思ったのは、裁判官、検事、それに弁護士もいる事だった。

裁判だから当たり前と思われるかも知れないが、我々がその頃理解していた中
国の裁判は、通常人民裁判であり、いうなれば裁く方と裁かれる方と二手があ
り、裁く方が一方的に告発し判決を下す。
被告には弁護士もいなければ、判決に対し不服でも上告も認められない、いわ
ばお馴染みの大岡越前のお白砂での裁きであった。

私は一度、全く偶然だがその様な光景に出会ったことがある。
それは、広州の隣町仏山の工場を廻っての帰路、その仏山の町中の狭い道を、
我々を乗せたリムジンバスが進んでいた。
そうしたらその一角が小さいが広場になっており、その広場に溢れた群衆は、
その道路をもふさいでおり、バスは動きもとれず立ち往生になった。

それが人民裁判だった。

正面に少し高い台があり、その上に後ろ手に縛られた三人の男の胸に、大きな
看板が掛けられており、「強盗」と墨書した二字と、うなだれて顔面蒼白状態
の男の姿まで目に入った。
我々を乗せたバスは、その光景を我々に見せまいと、しきりにクラックション
を鳴らしてその混雑を突き抜けていった。

その様な光景は、今では中国の劇映画にも出てくるし、「ラストエンペラー」
「大地の子」にも出てくる。
しかし当時聞かされていた人民裁判を、始めて一瞬だが目の前にしたショック
は大きかった。
犯人達のおびえた顔と、群衆の叫び声は、その夜ホテルに戻りベッドに入って
も、あの不気味な思いは消えず寝付かれなかった。

1980年当時中央では毛沢東の後継者華国鋒の地盤が、トウ小平により揺さ
ぶり崩され始めた過程にあり、結果はトウ小平の抜擢により、趙紫陽が党主席
になり現実路線のトウ小平体制が確立する。
この体制転換の一つの象徴として、多分に活用されたのが、後で考えるとこの
四人組裁判のテレビ放映であったように思う。

「もう現在の中国は人民裁判の国ではありませんよ。法に則り弁護士も入り、
被告の人権も認めた裁判を行う近代国家ですよ」
ホテルのエレベーターホールに、わざわざ英語の宣伝ビラまで張り出し、テレ
ビの放映を予告した狙いは、国内と海外に対する実に巧みな政治のプロパガン
ダの予告宣伝であった様だ。

裁判番組の編集でも意図的なものが見られ、首魁江青が裁判中ヒステリックに
わめき散らす場面が多出する。
更に最も若くして鋭い論評を展開した王洪文は惨めなほどの卑屈さで非を認め
罪を悔いた。
それはその番組を見る万民に対し、如何に文革及び四人組が、中国社会を混乱
させたかを如実に認識させる効果は絶大だった。

それは又華国鋒主席の、毛沢東晩年の誤った極左路線継承者としての責任を追
及する為の一材料として、この裁判の判決が81年1月であり、華国鋒の追放
決定が同年6月だから、文字通りこの裁判によって華国鋒はトドメを刺された
感がある。
こう思うとこの裁判のテレビ放映はトウ小平の見事な政治ショーだったように
思う。

当然の事ながらこのメルマガ第3号に書いたように、78年末始めて広州に足
を踏み入れたとき、市内随所に見られた毛沢東が病床で華国鋒に伝えたという
「君が後をやってくれるなら安心だ」の大看板は、80年頃より一斉に撤去さ
れ始め、やがて完全にその姿を消すことになる。
時代が大きく転換しているのが判る。

その後仕事の関係で都市部だけに限らず、農村地帯を行く機会も増えだしてき
た。
そしてどの農村にもある小さな広場の掲示板に、裁判記録(法院布告)が張り
出されているのをよく見かけるようになった。
それは新聞大の紙に、数名の犯罪者の顔写真が大写しに掲載されており、住所
氏名、年齢が書き出されている。

更にその顔写真の下に、その人の犯した罪状が明記されている。
例えば殺人、強盗、強姦、窃盗等様々である。
そしてその結果、如何なる判決を受けたかも記載されている。
私が驚いたのは余りにも死刑(銃殺と書かれている)が多い事である。
その顔写真の上に∨印が書かれているのは、執行済みを表しているそうだ。

こういうものを公衆の面前に張り出す事は、我々の常識からすれば理解に苦し
む所だ。
中国の当局側とすれば、刑法が新しく施行され、それにより「こういう罪を犯
せば、この様に罰せられるのだ」という、具体的な刑法解説の実例教育として
張り出しているのだという中国人もいた。
一罰百戒の意味もあるのだろう。

大体死刑の場合は銃殺が多いようだが、ある中国人の友人から奇妙な話を聞い
た。
死刑を執行した場合の弾代については、刑死した人の家族へ請求されるのだと
いう。
私は冗談だろうと聞いていたが、その後アメリカ人の著名な中国専門のジャー
ナリストも、その著書の中に書いていたから、やはり事実なのかも知れない。

前書きにも書いた様に、文革時、無法にも日本人を強制的にホテルに監禁し、
そのホテルの費用の全てを日本人に支払わせていた事と共通している問題のよ
うだ。弾代を請求された遺族は、通常「あいつとは以前から絶縁中だ」と主張
して、その支払い責任を拒否したという話も、あの国ならではの悲喜劇である
と思う。

中国の法整備等は80年代中頃以降の新時代に入り次々と公布され、即実施さ
れる様になるのだが、「朝令暮改」の言葉の元祖だけあって、公布された法令
はすぐ改訂される。
特にそれが貿易、経済業務に関する事であれば、尚更我々を混乱させる。
思えば「過ちを改めるに憚る事なかれ」この言葉もこの国が元祖なのだ。

しかし裁判をもって政治ショー的効果を狙ったり、朝令暮改を繰り返す国は、
決して開かれた真の民主主義でもなければ、人権が守られている社会とは言い
難く、法治国家というよりやはり人治国家の香りを強く感じてしまうのは当然
である。
国の法整備が進むにつれ、民衆の間には「上に政策あれば、下に対策あり」の
悪循環が、犯罪多発として現在に至るも政府を悩ます要因となっていると思は
れる。
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<<あとがき>>

私のこの随想記は冒頭にも申しました様に、殆ど20数年前の私の記憶に基き
拙文を書かせて頂いております。
当然記憶の曖昧な点は昔の仲間に確認したり、時には所有する本をひもどいた
りしながら、出来る限りミスのない様心がけている積もりですが、生来の浅学
非才に加え、怠惰な性情で更に正確さに欠ける点もございます。

前回号において「広州交易会」の記事を書かせて頂きましたが、その最後に、
「我々が参加していた頃は春秋年2回、期間はそれぞれ1ヶ月、それが半月に
なり、今は春交だけ」と書きました、
が、それに対し発刊当日5名の方より、全く同意味のメールを頂戴しました。
それは「昨年の秋交に出席したが、今年からはないのか?」

慌てて国貿促へ電話をし確認しましたところ、明らかに私のミスと判明しまし
た。
国貿促による正確な情報によりますと次の通りです。
国貿促担当者も過去の推移は記憶にないとのことですが、昨年より春秋年二度
開催されているが、何れも4月と10月の15日より26日までに期間短縮さ
れ継続されているとの事であります。

再び私も論語中の「過ちを改めるに憚る事なかれ」を、引用させて頂きここに
お詫びと訂正をさせていただきます。
申し訳ありませんでした。

今後は出来うる限り疑念の点は調査の上書かせていただきますが、お気づきの
点はご遠慮なくメール頂ければ真に幸甚と存じ上げます。

次回より暫く汕頭での体験を書かせて頂く予定です。
1979年春、広州よりあのレース編みで昔から著名な汕頭市に入って、先ず
驚いた事は、日本の漁網業者が我々の行く少し以前に訪問した事があるそうで
すが、繊維製品業者としては始めての日本人の訪問だと聞かされた事でした。
それだけに様々な出来事が待っていました。

                           遊 庵 散 人
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
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