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★ 遊 庵 散 人
★ ---------- China,20years ago ----------
★ 殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
★ 1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
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<< 自力更生と技術交流 >>
自力更正は毛沢東主席の有名な言葉の一つです。
つまり効率的な集中生産に対して、各省各地でそれぞれのもの全てを、自前で
技術開発し、独自で生産し、如何なる時でも、つまり外敵が侵入して国土が分
散されたときでも、各地が自立し自給自足体制のもとで敵と戦える体制を取ろ
うという趣旨からだと聞いています。
あの頃迄中国は世界から孤立していました。
長江に架けられた始めての橋「南京大橋」も当初は中ソ友好のもとソ連の技術
指導で着工したのですが、その内中ソ間絶縁となり、ソ連の架橋技術者は工事
半ばで総引き上げをしました。
そうしてその後は中国の技術者だけで建設し、自力更正の偉大なモデルと自讃
しています。
しかし我々が各地の工場を訪問しても、各工場とも設備、技術は全部自己開発
の為マチマチで、出来上がる製品も凡そ均一性に欠けるのは、当然やむを得な
いことでしょう。
それは海外の情報や技術、それに管理方式も一切入らず、彼等が彼等独自の発
想と努力で、生産技術を高めようとしたのですから無理もないことです。
我々が率直にその問題点を指摘しますと「では工場技術者を集めるから、次回
日時を決め具体的に指導願いたい」と依頼を受けます。
我々も少しは製品向上になればとの期待で引き受けます。
当日二百人程の会場が満員で、聞けば遥か四川省、雲南省の方から、3〜4日
かけて広州へ来たという人の居るのには驚きました。
当時中国は東北、華北、華中、華南と4地区くらいの工業行政区分になってお
り、広州の場合華南地区とはいえ、その内陸部も含んでいる為、この様に遥か
奥地からの出席ということになるらしいのです。
勿論彼等にとっては当時殆ど不可能だった国内旅行の面白さを味わう事の楽し
みが、真の旅の目的だったのでしょう。
しかし何といっても一番驚いたのは会場入り口の看板には「中日技術交流会」
と大書されていた事です。
我々から技術指導を受けるのではなく、「お互いの技術を交流をする会」なの
です。
一体我々は当時中国側から何の技術を教わるのでしょうか。
それでも敢えて「交流」と書くことにより、彼等の「同等」という「面子」を
保とうとの考えが彼等にはあるようです。
これが「中華思想」なのでしょうか。
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<< 本号の内容 >>
◆◆ 春秋広州交易会
★ 我的朋友遍天下
★ 社会主義経済下の交易会
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★ 我的朋友遍天下
このスローガンも毛沢東主席の言葉である。
当時中国の主要空港や鉄道の駅によく大書されていた。
この言葉通り広州の空港や駅に世界から人が集まるのが、年二回開催の「広州
交易会」である。
文字通り世界に門戸を閉ざしていた中国が、唯一貿易商談をする場所が、この
交易会でその為世界中から業者が集まるのだ。
この交易会は毎年4月と10月、確か15日からと記憶しているが、丸1ヶ月
開催される。
この大会に参加するには、中国国際貿易促進委員会(通称国貿促)があり、そ
の連絡機関として各国にやはり国貿促支部がある。
そこが交易会出席者をまとめるというか、とにかく参加人数や参加日をコント
ロールする仕組みになっている。
従ってそこで参加を了承された人数、及び期間しか出席できないのだが、その
代わり一般渡航の場合のように、何時発行されるか判らないインビテ−ション
を待つ必要はなく、容易に渡航できるわけである。
各商社では事前に参加人員(商社員とそのお客も含め)希望者並びに出席希望
日を、日本国貿促に提出し了解を取る。
国貿促が了解した参加者は、出発までにビザを取り日本を発つ。
香港到着後はほぼ団体行動である。
前夜指定されたホテルのロビーに集合し、中国国際旅行社と列車代金支払いや
チケットの受け取り、その他注意事項を受ける。
翌早朝、再びロビーに集まり、用意されたバスで九龍駅に向かい列車に乗り込
む。
この期間広州市は外人客で膨れ上がる。
外人の泊まれるホテルは限定され、その為、国貿促で出席日程、人数をコント
ロールしながら参加許可を出しているのだが、そう全て予定通り行かないこと
も多い。当然商談が三日の所四、五日に長引く場合もあるだろう。
この様な少なからぬハプニングにより常にホテルは混乱が起こる。
通常一人で交易会に参加した人、或いは人数の関係で一人はみ出した人等は、
全く見知らぬ人との相部屋宿泊となる。
私も二度経験した。お互いに遠慮しながら一夜を過ごすのはやりきれない。
更にそれでもはみだした連中は、ホテルのロビーや中庭のベンチに寝ている人
もいる。
それらは殆どアフリカや中近東よりの参加者だ。
話は横道に逸れるが、中国は当時、大国の覇権主義反対、第三国との連帯強化
を唱えながら、実態は過去の歴史的民族意識からくる中華思想や、周辺国家へ
の蛮族意識、朝貢貿易的観念などから、自然に中国人には第三国人蔑視意識を
持っている様な感じが、その後の私の見聞を通してもいえる様な気がする。
我々が交易会に参加する以前の日本よりの客は、限られた友好商社か或いは大
企業のダミー業者か、その他個人で中国と何らかのコネのある人達のみが参加
した。
中には、個人で例えば普段は農業を営む傍ら、この年二度の交易会には参加し
て、漢方薬や蜂蜜を買い付けて帰る程度の友好業者も多かったらしい。
それが1980年頃より、大商社もホテルの部屋内に期間中自前のテレックス
等を設置して本格参入してきた。
当時日本への連絡は国際電話は先ず掛かり難く、緊急用件は全て中央電信局よ
り電信で連絡した。
国内長距離電話ですら数時間の待ち時間を要した。
インフラ整備という点では全くお話にもならないお粗末な時代だった。
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★ 社会主義経済下の交易会
何故世界中からこの様な交易会に、不便を我慢して集中参加したのか?
それは、
一ヶ所で広大な中国全土の状況が把握でき、必要とあれば商談もできる。
次に計画経済の中国では、この交易会でその年の、或いは次シーズンの原料や
製品についての新価格を発表するのが常である。
我々もこれを知りたかった。
まず9時開門を知らせる軍歌風の勇ましい音楽が、ボリューム一杯に上げて、
会場一帯に鳴り響く。
これは12時の昼食時も、午後2時の再開時も、そうして5時の閉会時も同様
である。
商談中であってもデスクに向かい合った者の話が聞き取れない程の凄まじい音
量である。
昼と夕は正に早く帰れと追っ払う様な調子に聞こえる。
全く広い会場のスペースと、その中に立てられた幾棟かのほぼ2階建ての展示
棟、嘗ての東京晴海の国際展示場を想像いただけると、大体あの様なものだろ
う。
その中に先ず取り扱い商品毎に棟が分けられ、その中に小さい個々のブースを
作り、各地方の公司毎に看板を掲げ、内部に商談室があり担当者が居る。
さて先程も言った様に、中国の対外貿易の大半は、この期間に集中的に行われ
る訳だが、我々の繊維にしても、来シーズンの毛、綿、麻、アンゴラ、カシミ
ヤ等の原料価格は、そこで発表され貿易商談が行われる。
製品についても、その新素材価格に応じて、これも新しい計算基準により見積
もられた製品価格が提示される。
基本的には社会主義国家である以上、全国同一商品、同一価格であり、各地方
毎のブースはあるが、特に原料については、品質的に多少のばらつきはあって
も、価格的には統一されている。
製品の場合当然そこに加工費が加わる訳だが、その加工費の計算基準も国が決
定し、公司はそれに基づき我々にオファーする。
その仕組みは当初なかなか知る由もなかったが、商談の回を重ねるにつけ案外
単純な事に気が付いた。
それは彼等が極めて短時間で、我々に売価を提示することにより気づいたので
あるが、それを簡単に言えば、決められた原料価格からその製品が必要とする
用尺、重量により先ずその製品の原料価格を算出する。
そうして「これだけの製品原料費が必要な場合、最低これだけの加工費(含営
業費)をプラスし、それをFOB価格とする」というルールが決められている
様だ。この様にして簡単に輸出価格はオファーされてくる。
勿論特殊加工を加えるものは別である。
ここらのコスト・売価計算方式は、我々とは基本的に異なるものである。
輸入原料の場合も、一枚当たりの製品原料費として、これだけの外貨を必要と
した以上、これだけの外貨を取れる様売価を設定せよという基準に則り輸出価
格が提示されてくる。
その結果仮に同一原料で手編みセーターをオファーした場合、製品重量さえ変
わらなければ、複雑な柄でも単純な柄でも同一価格でオファされる。
さすが中国も、その約7〜8年後、開放経済と共に製品の加工賃もその製品生
産の難易度を基準に、加工費を決定する様当然ながら変化してきた。
しかしカシミヤに関しては今でも製品価格を「グラム当たり何セント」で取り
引きされている。
「製品は製品全般の価値で売る物であり重量で売る物にあらず」これは私の持
論だ。
総体的に当時の広州交易会は活気があった。
訪問客は世界中から参加し、出品者は全中国からあらゆる産業別に、商品を展
示するのだから盛大だったのは当然だろう。
しかし中国国内の改革解放路線が進行するにつれ、各地でも積極的に貿易を行
い、客も四季を問わず中国各地を訪問する様になり、交易会の意義も薄れた。
やがてこの広州交易会も春秋各15日間に期間短縮され、現在では年一回四月
に開幕するだけになり、正に時代の役目をおろした感がある。
数年前それこそ十数年ぶりに訪れた広州は、もう完全に、香港の延長のような
近代都市に大変貌していたが、交易会会場、東方賓館は変わらずで、昔日の交
易会の盛況を思い起こした。
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<<あとがき>>
再び広州の街での見聞に触れます。
清朝末期、この地で起こったアヘン戦争を契機に、欧米各国の中国への侵略、
植民地化が始まりました。孫文が清朝打倒の
辛亥革命を目指しその根拠地としたのもこの街ですから、この街は歴史的に動
乱を経験した悲劇な街と同時に、開明的な街ともいえる雰囲気が街を歩くと感
じられます。
「食在広州」
街の至る所にある軽食屋には、早朝から飲茶を愉しむ市民で殆ど何処も満員で
す。
私も何カ所か勧められ起床と同時に駆けつけても、何とか席を作ってもらった
経験もあります。
動乱の歴史の中でも、彼等には中国の他地区と異なる悠々とマイペースで人生
を愉しむ、南方人特有の生き方を心得ている様です。
珠江はさして大河ではありませんが、満々と水をたたえ大船も行き来し、陽光
のもと川に沿った道路を、道端で売るライチを囓りながら歩いていると、川に
“花艇”という遊び船を浮かべ、それに幼女の頃針で両目を潰され、歌舞音曲
を仕込まれた歌姫を乗せ遊興に耽ったという、解放前の残酷悲話は今は遠い昔
の話です。
前回も書きました様にさすが食都広州、解放前よりの趣ある料亭にも事欠きま
せんが、その殆どは一般の中国人も入れるのですが、外人用の客席とは明らか
に、分けているのが判ります。
優遇されているといえば結構なのですが、これも一種の差別待遇でしょうし、
自国の悪い所を包み隠そうとの意図も感じられ不愉快です。
子豚の丸焼きで著名なレストランがありました。
席に着くや何か怪鳥の鳴き声のようなものが屡々耳に入ります。不思議に思い
店員に聞くと、子豚の喉を切り裂く際の断末魔の悲鳴だとのこと。
そういう音こそ隠して欲しいものをと思いました。
店員曰く「あれは明日食卓に出す分だから安心してくれ」
これにも呆れました。
1992年広東省を視察したトウ小兵が、この地方一帯の改革解放の進展振り
に満足し、全国に対しこれを見習えとの大号令、有名な南方巡話(先富論)を
発表し、以来上海や北京の改革解放も一気に加速度がついたのは有名です。
近代に入り、何時の時も広州は中国での新しい時代の先端を切って走ってきた
街のようです。
遊 庵 散 人
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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