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                            遊 庵 散 人
         ---------- China,20years ago ----------
           殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
         1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
    
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<< 当時のレート >>

今後のお話を進める前に、一応当時の為替レートの問題について、記憶をたど
りながらお伝えしておきたいと存じます。

1978年といえば日本では成田空港開港の年です。
日本円の米ドルレートに就いては、銀行で確認しましたから間違いないのです
が、この年の8月に始めて¥200を割り、私の初訪中した9月1日のレート
は¥189.90/US$でした。
それに対する中国人民元(外人向け兌換券)の交換レートは、正確に米ドルと
連動はしていませんが、確か¥120/人民元程度だったように記憶しており
ます。

当時中国では2種類の貨幣があり、即ち一般中国人が使用する人民元(RMB)
と、外人専用の兌換券(とはいっても何と兌換出来るものでもなく、名前だけ
の兌換券)で、兌換券が使用できる場所も自ずから制限されていました。

それは外人専用のホテル、友誼商店、レストラン等外人の出入りが許可されて
いる店に限定され、そこ以外の使用は厳しく制限されていました。
特に一般中国人の兌換券所持は厳重に処罰されました。
更に外人が一般人民元を持っているのが発見されれば没収されました。

これらのことは後日お伝えするとして、もう一つ参考に申し上げれば、我々の
宿泊した広州東方賓館の宿泊費は30元、食事は昼食で2〜3元、夕食3〜5
元といったところでしょうか。
勿論中国料理ですから数人で数種の料理と、軽く飲むビール代も含めた一人当
たりの値段です。
なお今から10年前頃にこの二種類の貨幣制度は廃止され、現在は人民元一本
ですが、現在の相場はほぼ¥13/人民元程度と聞いています。
まさにうたかたの感があります。
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<< 本号の内容 >>

◆◆ 宴会に就いて思う 

  これが中国の宴会セレモニー

  誰のための大宴会?
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◆◆ 宴会に就いて思う 

  これが中国の宴会セレモニー

私の手許には、約20年間百回を越す訪中記録の大型アルバムが10冊近くあ
る。
しかし私はその間一度もカメラを持参したことはない。
だからそれは全て同行者の方々によって撮られた思い出の写真ばかりである。
そうしてその中で圧倒的に多いのは“宴会”の記念写真である。

中国人のカメラ好きは無類である。
あの混乱の文革時代、若き紅衛兵達は無賃乗車の特権を利用して、全国から北
京へ北京へと集まった。
そうして先ず彼らのやったことは天安門広場での記念撮影であったという。
為にあの広大な広場は人で埋まり、国営の写真屋は大忙しだったらしい。

私のアルバムを見た或る友人は「20年間酒を飲みに中国へ行っていたのか」
と苦笑した程、写真の70%程は中国人と一緒に、片手にグラスを持って写っ
ている。
我ながら呆れる程だが、よくこれで体がもったものと考えてしまう。
現在はそうでもないが、あの頃の中国との商売には宴会は不可欠な儀礼的行事
だった。

宴会開催は二つの意味を持つ。

それは古い中国の慣習であることと、新しい中国の特権業務の行使としての宴
会といえるのではないだろうか。
中国は春秋戦国の時代より「礼」を政治の基本に於いた伝統の国。
遠来の友と杯を交わしその誼を深めるという立前は、社会主義国家になっても
変わらないのかも知れない。
その様に思ったのは次の様な一種の礼式的なものにより宴席は始まる。

招待を受けた我々一行は、指定された料亭に時間通り車を停める。
広州はさすが華南地方随一の都会、さらに広東料理の本場でもあり、解放以前
からの由緒ある更に趣深い料亭には事欠かない。
その一つの門前に降り立つと、その夜の招待側のNo2と外事科のものが、我々
を玄関まで出て丁重に出迎えてくれる。

彼らによりやがて一室に案内されると、部屋は手前がソファーのある歓談室、
奥は丸テーブルの宴席とに別れ、その歓談室には招待側のNo1と、ほぼ招待客
と同数の公司の人達が、我々を迎えてくれる。
「ニーハオ」と握手の和やかな交換が暫く続く。
殆どの人達は相互の言葉が通じないまま話す事もなく宴席へ招じられる。

さてその次が問題である。

宴席の座る位置に絶対的な決まりがあるのだ。
図で示すと判りやすいのだが、円卓の正面には招待側No1が座り、その向こう
正面にNo2、円卓中心の右正面にNo3、左正面にNo4と決められており、それ
以下はその間にやはり決められた順に彼等は席に着く。

今度は客側である。
招待側No1の右隣に客側No1、左隣に客側No3、そうして、向かい側の招待側
No2の右隣に客側No2、左側に客側No4と座り、その後も決まりはあるのだが
省略するとして、ともかく宴席に入っても、招待側が貴方はここ、貴方はこち
らと指定してくれて、始めて席に着くことが出来るという始末である。

この国は人民平等の共産社会主義国家。
この国の軍隊である人民解放軍は階級のない軍隊である筈の中国で、かくも序
列を意識し重んじる現実に先ず驚かされた。
思い起こせば国慶節やメーデーの日、天安門上に立ち並ぶ国家幹部の順序によ
り、権力者としての序列を知り得るという、過去のマスコミ等の指摘は、こう
いうことをさすのだろうと改めて考えた。

これに就いて我々が困ったのは、前回述べた様に招待宴を受ければ、返礼宴が
絶対必要だという事だ。
当日出席してくれる公司側来客のメンバーと、その正確な序列を予め確認し、
それにより当日の彼らの座る席を、間違いない様設定する必要がある。
しかし序列など簡単に我々には判らないものだが、そこらは外事科の心知れた
者に問い合わすと、それとなく教えてくれ、それにより席順を準備する必要が
ある。

我々の招待する相手は、失礼ながらせいぜい公司の幹部級だが、聞いた話では
日本大企業の社長等が訪中し、政府のトップクラスを招待するとなると、これ
はおお事らしい。
政府の各部長(大臣)間にも厳然とした序列がある。
問題は当日の出席メンバーが前日位までなかなか明らかにされないこと、次に
突然のメンバー変更が屡々ある事。
それらの為に大抵は宴会寸前まで、キリキリ舞をさせられるそうである。

この後いよいよ食事が始まるが、円卓に並んだ広東料理の数々に対し、客は勝
手に箸を出し、自分の皿にとることは基本的に遠慮しなければならない。
必ず先ず招待主が主賓の皿に料理を取り分け、続いて招待側の者が左右の客に
取り分ける事により、始めて客は料理を口にすることが出来る。

テーブルの各自の前には大抵、最低大小2杯のグラスがおかれ、大きい杯には
ビール又はジュースが入れられ、小さい杯には有名な茅台酒級のアルコール度
数50度以上の白い酒が入れられている。
大きな杯の飲料は客は自由に飲めるが、メインの白い酒は、先ず招待側より全
員、後は客の個人相手にお名指しで乾杯の声がかかり、指名された客はそれに
応じて飲み干すのがしきたりだ。

宴半ばに達した頃、今度は主賓より招待側に対し、必ず「ご主人側の杯を借り
まして」との前置き口上を入れ乾杯を提唱する。
後はこの乾杯の応酬が時間と共にピッチを上げ、かくて日本人の大半は朦朧状
態で、終宴を迎える。
私の経験では日本人で「酒が強い」と自負する人程つぶれるのは早い。
ともかくこの白い酒はアルコール度60度前後、部屋を暗くし火を付ければ激
しく炎を上げる凄いものだ。

この様なことは古代中国から続く食事の作法か習慣か知れないが、もっと出さ
れた料理の中から自分の食べたいものを、好きなだけ食べ飲みする方が、いく
ら愉しいか判らない。
あの頃の宴会はこの様に堅苦しく息つまる雰囲気で、始まりそうして終わり、
終わればともかくホッとしたものだった。

当時広州での宴会で我々の支払う費用は一人30元程度だった。
外人に対して請求される単価は、どんな場合も、どんなものでも中国人の数倍
はしたのだから、最初招待を受け、後日我々が答礼宴を催した場合、先の公司
より招待を受けた際の費用も、結局は後で我々が支払っていることになるので
はないか。

そんな風に考えると全くばかばかしくなったものだ。

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  誰のための大宴会?

次は新しい中国を通しての彼等の特権的宴会というものを述べてみよう。

全員が食卓の席に着く。
そこで公司側代表が挨拶を述べる。
この挨拶が大変なものである。

「我が国は世界の覇権主義には断固反対する。四つの現代化のため人民は一致
団結してこれに当たる。貿易を通し日本人民との友好を深める」それに日本と
は「一衣帯水」という言葉が何度か繰り返された。
繊維品を買いに行っている我々に「覇権主義」は少し見当はずれの挨拶のよう
だ。
この様な事については後日又述べることになるが、彼等、特に幹部と称されて
いる人々は、常に厳しい学習を受けている。
彼等はその際一つのマニュアルを与えられているのだろう。
そうしてこう言うときには教えられたマニュアル通りを、鸚鵡返しに喋ってい
る様にしか思えないのだ。

やはりこれが共産主義国家の真骨頂だろう。

「親方日の丸」をもじって「親方五星紅旗」我々はよくこう言った。
中国は国全部がお役所であり、従業員は公務員である。
宴会の料理の出方を見ていると、えっまだ出るのというくらい他種類の料理が
出てくる。

料理の質の違いは様々だが、量はどこも半端なものではなく、とても食べきれ
るものでない。
ビールももう終わりだというのに10本くらいは軽く追加されて出てくる。
何と無駄なことをと何時も思う。

内情は判らないが、お役所である以上予算があり、それに余裕があれば使い切
る、この事では日本も偉そうなことはいえないが、お役所とはそんなものだろ
う。
私は後日この事で大変な思いをした。
これは初訪中から一年位は経過した頃の話だが、宴会話のついでとしてこの際
述べておこうと思う。
場所は広東省汕頭。
訪問客つまり接待される客は私一人だった。

その宴会は三日間連続して、しかも同一会場で行われた。
それも3テーブルだから中国人約4〜50名程度、私はその殆どの人と面識は
なく、初対面である。
勿論宴会中も私への紹介も無い。
重ねて言うが客は私一人である。
しかも三日間の宴会に於ける、中国側メンバーは殆ど変わることなく同じ人物
なのだ。

では何故三日間も続くのか?

招待側の主人公が毎日入れ変わるだけなのだ。
初日は工場長、二日目はニット公司総経理、三日目は対外貿易局総経理と変わ
るが、勿論彼等三人も主人公の席が替わるだけで、三日間とも皆出席する。

宴会が始まればやはり招待側代表の私への挨拶はあるが、その後はもう彼等同
士の牛飲馬食の場と化してしまう。
時折、お義理的に私に対し杯を上げるが、後は私の存在等はあって無きが如き
もので、彼等同士の乾杯、乾杯が続く。
次から次へと際限なく出される料理を片端から平らげていく。
そうして最後は、残った料理を持ち帰り用に、一つのビニール袋に平気で数種
の菜を一緒に放り込み宴席は終わる。

あの当時、彼等の日常の食事は極めて貧しかった。

外人の中国人家庭への訪問は、固く禁止されていたから、彼等の家での食事は
推測するより外無いが、公司や工場で彼等が歩きながら(何故か)食べている
昼食は、琺瑯の容器にご飯を盛り、それにおかずの野菜をぶっかけただけの、
彼等の言う“泡飯”我らが陰で言っていた“猫飯”であり、これで彼等の夕飯
もほぼ推測される。
その彼等にとって宴会出席は、御馳走を口に出来る絶好の機会といえるのだろ
う。

常識的に考えるなら私一人の客など、接待の必要も無く、もしやってくれるに
しても三公司一度で、経費三等分すれば済むことだが、三晩続けるのは三公司
とも予算があり、私をダシにして彼等自身が愉しんだとしか思いようがない。
やはりこれが国営公司の弊害であり、そのツケが今廻っているのだろう。
あの当時彼等にとって最も重要なことは“特権行使”というものだったのだ。

私は何時も、甲斐甲斐しく料理を出し皿を下げていく、若い女の子の心情を考
えた。
彼女らの与えられる食事は、三度三度例の猫飯であろう。
この卓に並び溢れる料理などは口にしたことがない筈である。
それを公司や工場の幹部達が、連日飽食しているのを、一体どの様に感じてい
るのだろう。
彼等の“特権の行使”に対し、共産主義への疑問も持たないのだろうか。
私はその本音を聞きたい思いだった。
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<<あとがき>>

今回は宴会について書きました。
ついでに中国人と飲酒について私の感想を述べます。

宴会を通して見ておりますと先ず酔っぱらうのは日本人です。
招待をするときであれされるときであれ、中国人が酔っぱらったのは中国業務
20年を通して一度もありませんでした。

では中国人は酒が強いのかというと、強い人もおれば弱い人もおります。
特に女性は殆ど飲みません。
始めて業務で日本に来た中国人は、日本人女性が女性同士ビヤホールで飲んで
いるのを見ると奇異に感じるようです。

宴会だけに限らず、街中でも酔っぱらいの姿は皆無といって良いでしょう。
中国人には一般的に日本人のような、仕事の帰りに仲間と一杯引っかけたり、
家に帰り晩酌をする習慣はないようです。

ただ若い人達には「家に戻ってビールを一杯」とかいうのもいますが、これは
外人気取りのオシャレ感覚で飲んでいるうち、習慣になってきたと見るべきで
しょう。
本来中国人には冷たい飲料を口にする習慣はなかったはずです。

零下20度の内モンゴル等で度数60度以上の、白い酒を呷る様にガバガバ飲
むのは、本来防寒的に常習していたものが、これらを受け付ける体質にしたの
ではないでしょうか。
日本でも、寒い地方の人が一般的に酒が強いのと同じでしょう。

医食同源を唱える中国では、酒も「この世の憂さを晴らす」飲み物でなく、健
康維持の為の飲み物として自分の体力に応じて飲む、だからこれも中国五千年
の知恵と伝統ではないかと思います。

勿論李白のような酒好きも居るのでしょうが。

                           遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
紅い中国の時代の目次に戻ります







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