☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
★ 遊 庵 散 人
★ ---------- China,20years ago ----------
★ 殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
★ 1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
★
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
<< 中国との距離 >>
いよいよ中国との商談が始まります。
現在例えば中国上海の公司と商談するとします。
当然事前に中国側に日本よりアポイントメントを取ることは簡単なことです。
ましてや日本側にその出先機関が中国現地にでもある場合、いともたやすいこ
とです。
そうして朝JL便成田発10時10分で上海着12:30分、昼食は機内で済ま
せていますから、相手公司に直行すれば遅くともその日の14時には商談開始
は可能です。
北京でも15時からなら大丈夫でしょう。
それが1978年ではようやく商談をスタートさせたのは、成田を発って実に
4日目の午後だったのです。
何と大きな違いでしょうか。
商談のことについては、私自身は繊維の人間のため、当然商談も繊維に絞られ
ます。
ただこのメルマガ誌上では、購読いただいている方のご職業が、当然多種に亘
るため、余り繊維の専門的なことに偏らず、当時の一般的な、中国公司との仕
事のやりとりについて印象に残る事柄を述べていきたいと考えております。
----------------------------------------------------------------------
<< 本号の内容 >>
◆◆ 商談始まる
★ 世界の朋友(ポンユー)達
★ 始めて覚えた中国語は「没有(メイヨウ)」
何でも没有から得た発想
★ ともかく契約が必要
----------------------------------------------------------------------
◆◆ 商談始まる
★ 世界の朋友(ポンユー)達
「中国紡織品輸出入公司広州分公司」これが我々の貿易窓口である。
社会主義国家である中国に於いて、対外的に貿易業務が出来る窓口は、各取り
扱い商品毎にあるこの「輸出入公司(中国名…進出口公司)」に貿易権を限定し
ており他は一切認めなかった。
その「輸出入公司」は総公司が北京にあり、各省都にそれぞれ分公司があるの
であるが、現実的にはそれらの商談の殆どは、後日述べることになる春秋年2
回の広州交易会で行われていて、それぞれ地方現地まで赴いての商談は、殆ど
皆無に近かったのが現実であった。
それは北京、上海、広州等ごく一部の都会に就いては、開放都市として外人の
立ち入りを認めていたが、他地方、他都市は全て外人の立ち入り禁止の非開放
地区であり、余程の理由のない限り、先ず我々の訪問は不可能であった。
それは例えば広州に入り、隣接する市にある工場への訪問すら殆ど許可無しで
は行けないのが現状であった。
それら行動の極端な制限については、後日に譲るとしてやはり今日は初商談に
ついて述べよう。
目指す公司は広州市のほぼ中心で、文明路と言う名前に凡そ似つかない小路に
面した、飾りもない漆喰塗りのお粗末な建物だった。
但しそれが特にお粗末な建物というわけでなく、市中の殆どは大同小異殆どそ
の様な建物が密集していた。
建物の内部は中に一本の通路をはさみ左右に、商談室と書かれた幾つかの紅が
ら色のドアが並んでいた。
ただそれだけの構造である。
その一つに案内され入って又驚いた。ホテルと同じく机と椅子以外何もない。
勿論床はコンクリートのままで、私は直ぐテレビ映画の警察の取調室を連想し
た。
唯一の飾りは地場産の、レース編の繊細なテーブルクロスだけが目を引いた。
それ程飾りの全くない空間だった。
これがファッション商品の商談室なのか!?
やがて公司の幹部が登場「ニィハオ」「ニィハオ」と一応双方笑顔で友好裡に
挨拶を交わし、さて商談が始まると思いきや、先ず幹部は我々に対し“遠い所
を”と歓迎の言葉をくれる。
その後“我が公司は”から始まり、延々と“創立19××年、幹部以下従業員
×千人、貿易国は全世界×ヶ国、年間貿易額は×百万ドル、中国国内でも繊維
については最高の実績ある貿易公司であり、我々は毛主席の指導により、世界
の朋友達と双方互恵の精神で、貿易拡大に力を尽くしている”と述べると幹部
は席を立った。
どうやらそれを言うのが彼の仕事らしい。
★ 始めて覚えた中国語は「没有(メイヨウ)」
何でも没有から得た発想
いよいよ担当者との会談開始。
先ずいきなり切り出された言葉は「あなた達は何が欲しいのか」
果たしてどんな製品の生産が可能なのか、そんな話も丸でないまま、更に一枚
の見本も見あたらないない所に、突然そう言われても、こちらは返す言葉もな
い。
「どういうものが出来るかサンプルを見せて欲しい」
「没有(無い)」先ず出た。
「では原料見本はあるか」
「没有」
「この様な編み地は出来るか」
「没有」
「この様な機械はあるか」
「没有」・・平然と答える。
こちらは段々苛立ってくる。
これがその日、私が始めて覚えた中国語だった。「没有(有りません)」
「貴公司も大いに貿易をやっている以上何か生産している製品はあるだろう。
何でもいいから見せて欲しい」
我々の依頼でしぶしぶ持ち込んできた、パッキングケースの中には、よれよれ
の数枚のセーターサンプルと、ニット地のサンプルというより、小さな布切れ
の束を持ち出された。
これらは全て、当時の日本の一般市場に出せるような水準からはほど遠い製品
であり原料だった。
「このセーターの何処が悪いのか?」と担当者は質問する。
先ず原料のウールが悪いから触ればガサガサで、所謂業界語で言う“風合い”
が最悪なのだ。
しかし、相手にはサイズの長い短いの指摘は判っても、風合いとかタッチとか
いってもこれは感覚の問題だから、とても理解できないのだ。
ましてやシルエットとか言っても判るわけがない。
※しかし数年後“手感”という中国語が生まれ、やっと我々のいうタッチが
理解され始めた。
丸編みニット(肌着用生地)に就いては、綿生地は糸が予想以上細く、生地も
極めて低能率の機械でゆっくり生産しているため、良い生地が編まれているの
だが、それを一杯引き伸ばし仕上げ(セット)しているため、判りやすく説明
すると、本来伸縮がありソフトな筈のニット生地が、ワイシャツ地の様になっ
てしまっている。
当時の彼らの輸出先はソ聯始め東欧共産圏国が圧倒的に多く、あとアフリカ、
中近東向けが主力で、日本向けとしては友好商社経由で肌着、パジャマ、コー
ル天のズボン等で、何れも特売商品として輸入されていたのが実態であった。
結局日本の一般水準市場で販売可能な品質の商品は、何一つ無いというのが、
その日の結論だった。
我々は新しく中国より繊維製品を輸入する方針として、価格だけで勝負するよ
うな製品は他社に任せよう。
我々は中国でしか生産できない、日本の中級レベル以上の商品を輸入しよう、
というポリシーを持って今回の商談に望んだ。
しかし多少の予期していたこととはいえ殆どこれは絶望的だった。
話の結果は我々の希望する製品を生産するに必要な工場、機械、原料、技術、
製品、それに資金までも、オールメィヨーで有るということ。
すかさず彼らは提案する。
「貴社がその様なハイレベルの製品をお望みなら、貴社は日本でも最大級の会
社であり、資金は充分あるはずです。どうか我々にその無い物全てを、貴社よ
り提供してもらったら如何でしょう」
では貴公司側は何を提供するのかという我々の問いに「充分な土地と労働力を
提供します」
四時半頃になると外事科(渉外担当)の男性が、商談担当者とこそこそ話して
は忙しげに各部屋を出入りしだしてくる。
我々のホテルへ帰る車の手配だ。
やがて五時が近づくと、今度のタクシーを逃したら後は知らないよ、とばかり
に有無を言わせず商談を中止させる。
勿論担当者も五時の退社時間が迫り商談中止は望むところだ。
追われるように部屋を出る。
4日間を費やしてようやく初めて開始した本日の初商談は「没有」だけ確認し
て、正味二時間足らずで終わった。
今日の商談を終えホテルの部屋に戻り、私は今後の進め方を考えた。
何もないところで何を作るか。まだ国際投資についての中国国内での法整備が
何もない時代だった。
当然私の関係する商社が、そんな投資案件に乗れるはずがない。
その時私がふっと思いついたのは“手”だった。前回申し上げた様に、部屋に
は魔法瓶の破損防止に細かい見事な、手作業による竹細工のカバーがあった。
公司にも巧緻なハンドレースクロスがあった。
私は“これ以外無い”と思った。
街でも手編みセーターの人々をよく見かける。
ある百貨店で、薄暗く商品らしいものが殆ど無い売場に、手編み用の毛糸だけ
は、産地毎に表示され可成りの売場スペースを占めているのに驚いた。
この国は未だ既製品を買う時代ではないのだ。
家族の着るものは母が、娘が作る時代なのだ。編み手は沢山いるはず。
そうしてこの生産には二本の棒があれば充分だ。設備投資も殆ど不要なのだ。
その頃の日本では、既に経済高度成長の過程にあり、人件費は高騰を続けセー
ター生産も国内ではもう手編みの生産に携わる人もなく、手動による機械編み
も徐々に韓国、台湾よりの輸入が増えだし、国内生産は全自動機による生産の
時代に入ろうとしていた。
だからこそ我々は中国で豊富で器用な「人の手」を使い、日本より原料だけを
持ち込めば、ハイレベルな手編みセーターが生産できる筈であり、それを日本
市場に輸出しよう。
確かにあの時代これを本格的に手がけた日本企業は無かったはずだ。
「基本は手“ハンド”です」
私がその時浮かんだキャチコピーだった。
*******************************
★ ともかく契約が必要
翌日早速この商談の件で公司に会見を申し入れた。幸い幹部は時間がとれると
いう。
双方の話は非常に順調に進んだ。
そうして先方より「貴社に対し汕頭(スワトゥ)地区に於ける棒編みセーター
の対日独占生産権を与えよう」との提案もでた。
汕頭といえばレース編み(鈎針編み)については国際的にも著名な産地だ。
公司側の条件は、初期3ヶ年契約、我々に対する要求としては、年間の加工賃
×十万ドルに相応する製品契約の実行等、極めて曖昧な契約内容であり、特に
双方契約未達の場合の罰則条項もなくともかくこれでよいから契約書にサイン
してくれという。
我々としては、基本的に汕頭が手工芸の優れた生産地区であることは充分な認
識を持ってはいたが、棒編みセーターについては未知数である。
しかもサンプルも見ず価格確認も無い状態での契約締結については暫時検討し
たい旨申し出た。
我々の契約逡巡に対し公司はこう述べた「我々が欲しいのは貴社との契約の実
績である。もしそれが何らかの都合で、商内進行に支障を来してもこれは仕方
がない事と考えている」
どうやら我々と「契約」そのものの考えが大きく違っているものらしい。
結局我々の代表は契約書にサインした。
そうして次回汕頭訪問を約した。
この様な問題は、その後中国公司の代表が訪日ミッションとして来日するよう
になった場合も、屡々仮でよいから契約書をくれと毎度言われたことにも通じ
ている。
ともかく彼らは帰国の際の実績報告にそれが必要なのだ。
やはりこれが社会主義制度下の致命的欠点であり、国営企業の殆どが破綻を来
す最大要因といえる。
また外事科の出入りがやがて激しくなる。
戻りの車の手配と宴会の打ち合わせだ。
この宴会開催は不可避なものであるらしい。
その地に滞在中絶対一度は招待がある。
いや一度でなく二度である。
何故なら招待を受ければ今度はこちらで相手を招待する答礼宴がこれも絶対必
要であり、それがしきたりという。
私は一度「申し訳ないが今回は時間がないので」と答礼宴を断った所、先方よ
り「夕食でなくても、昼食でも良いのですよ」と言われ、やむなく昼の答礼宴
を催した事があった。
後の話だが山東省青島から、三泊四日で山東半島の工場を廻った際、昼夜五回
の宴会が続いた。
さすがその際は同行した日本人4人の内2人が帰国後即入院した。
急性肝炎によるものだった。
日を経てみてしみじみ感じたことは、中国商売は体力勝負だった、という強い
実感だった。
----------------------------------------------------------------------
<<あとがき>>
いよいよ商談が始まりました。
しかしそれはなかなか、かみ合わない話し合いの連続でした。
当時プロレスラー猪木とボクシングのアリが、史上最大の格闘技マッチという
ふれこみで、興味を引いた試合が東京であり、期待してテレビで観戦していま
した。
寝技が得意な猪木は直ぐマット上に倒れ込み、アリを誘い込もうとします。
一方アリは、そうはさせじと立ったままのファイティングポーズで、しきりに
“カムオン”を連発し猪木を立たせて殴り倒そうとします。
しかし結局試合はそのままで殆ど打ち合うこともなく終わりました。
余りのばかばかさに観客もブーイング、我々TV観戦者も全く白けました。
最初の商談が終わって、ふと思い起こしたのはこの事でした。
何と話の食い違いが多いことか、がっちり組み合っての商談が出来ないものだ
ろうか。
この苛立ちがやや解消するまでには、中国の経済開放が本格化するまでの爾後
10年の歳月が必要でした。
遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
|