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★ 遊 庵 散 人
★ ---------- China,20years ago ----------
★ 殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
★ 1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
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<< 広州まで32時間 >>
前日午前10時成田を出発したフライトは、午後2時香港に到着。
ホテルにチェックイン後、直ぐ九龍北京道にある、中国国際旅行社を訪問しま
す。そこで予め日本の旅行代理店より予約しておいた九龍―広州の列車チケッ
トを購入します。それでともかくその日は終わります。
翌朝8時に九龍駅より列車に乗り、そこから第1編、第2編で述べたように、
深センでの入国検査を経て、再び列車に乗りその日の夕刻5時頃ようやく目的
地広州に着きます。その間成田出発より約32時間。
現在広州へは関西空港より直行便が出ています。
関空発10:10広州着13:30時差を入れても正味4時間20分。
何と近くなったことでしょうか。
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<< 本号の内容 >>
◆◆ 広 州 到 着
★ 明後日までごゆっくり静養下さい
◆◆ 市 内 散 見
★「君が後をやってくれると安心だ」
★ 広大な公園の朝と夜
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◆◆ 広 州 到 着
★「明後日までごゆっくり静養下さい」
列車は夕暮れの広州駅に到着した。
当然のように、取引先貿易公司の女性担当者がホームで嬉しそうに手を振って
我々を出迎えてくれる。
我々もホットする。
何故なら万一公司の出迎えがないとすれば、もう我々一行は駅のホームで立ち
往生して一歩も足を踏み出すことが出来ないためだ。
当時中国へ入国した場合、それ以降の手配は全て現地貿易公司の外事科がやっ
てくれる。
有り難いようだがその代わり一切の自由は利かないわけだ。
例えばホテルの選択にしても一切向こうさん任せで、現地に着き公司に案内さ
れ、到着してそこで始めて今回の我々の宿はここかと知るわけである。
今回の初訪中で公司が我々を案内してくれたホテルは「東方賓館」駅から車で
5分程の大ホテルである。
丁度春秋の年2度催される有名な広州交易会々場の巨大建築物と真っ正面に向
かい合って建てられている。
当時の広州では最高級のホテルといえるだろう。
また不思議に我々の荷物は既にロビーに積まれていた。
チェックイン後案内された部屋は、覚悟はしてきたものの、全く必要最小限、
一切飾りのない木製実用的家具(ベッド、机、椅子)のみで、しかも床はコン
クリートのままを平らに加工した状態で、僅かベッドの下だけお粗末なカー
ペットが敷かれており、およそ居住空間としての潤い的要素の一切をなくした
ような部屋だった。
しかし一応バス、トイレは備わっていることに安堵した。
ただそれが用を足せるかどうかは疑問だ。
そんな中サイドボードにおかれた魔法瓶が、壊れ防止に、見事な竹細工の手製
の籠で包まれている事だけ異様に目を引いた。
同行者は取り敢えず一室に集合、公司と今後の打ち合わせに入る。
しかしそれは約5分間一方的な話で終わった。公司代表の担当女性はこう我々
に言った。
「皆さん遠いところお越し頂き大変だったでしょう。お疲れになっていると思
いますから、商談は明後日午後公司で行いましょう。2時に来て下さい。今日
はゆっくりお休み下さい」
約2日を費やしここまできて、今宵はともかく当然明朝から商談をと意気込ん
でいた我々の矛先をかわすかの様に、殆ど未だ2日待てとは何たることか。
こちらも丁重にせめて明日午後からでもと言う我々の要求に対しても、先方は
「ごゆっくり」と「当方にも予定があるので」を繰り返すだけで、とりつく術
もない。
その間我々は一体何をすればよいのか。
もう我々は否応なく全く向こうさんのペースにはまり込んだ格好だ。
中国の工場に効率化が叫ばれ始め「時は金なり」のスローガンが張り出される
ようになるのは、それから10年以上先のことである。
夜が更ける。外は街路灯も少ない殆ど真っ暗な道を、通る車もなく夜勤の人ら
しい自転車が時折走り抜ける。
ホテルの廊下も病院のそれのように薄暗く、部屋の中も本も読み辛い程の暗さ
である。
持ち込んだウイスキーを呷り第一日の夜は終わる。
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◆◆ 市 内 散 見
★「君が後をやってくれると安心だ」
このテーマーは死の床にあった毛沢東主席が、病院のベッドの上で半身を起こ
し、見舞いにきた華国鋒の手を握りしめ「私に万一の時は私の後を君がやって
くれるなら私は安心だ」と遺言したといわれる(中国人の殆ども作り話といっ
ていたが)歴史的名場面の超特大看板が、先ず街中至る処に張り出され、嫌で
も目に付いた。
それは毛沢東死去以後も毛路線を堅持し、その正当な後継者として華国鋒を祭
り上げ、国民の団結と、従来路線を継承していくことを、国民に周知徹底させ
ようとする、芝居がかった様な党中央の意図はその大看板を見て我々にも読み
とれた。
ついでにその当時、街の至る所で見られた多くのスローガンを思いつくままに
書いていこう。
これにより読者の方に当時の時代が理解していただけると思う。
「マルクス、レーニン主義堅持」
「毛沢東思想万歳」
「偉大な中国共産党万歳」
「戦って勝たないことのない中国共産党万歳」
「世界無産階級勝利団結」
「覇権主義反対」
「四つの現代化…農業、工業、国防、科学技術実践」
「我が友は天下に遍く」等々。
地方の農村へ行けば、あの文革時代の有名なスローガン「造反有理」「農業は
大塞に工業は大慶に学べ」
既に6年前ニクソン訪中を終え、上海コミュニケを発表したアメリカに対する
「米帝国主義は張り子の虎」のスローガンさえ消されずに現存していた。
そうして至る所毛沢東の大肖像画が目に付く。
しかしその大肖像画は数年後その一部を残し、殆どが消えていく運命になると
は未だ誰も知らない。
ともかく始めて中国の市街地へ出て気づいた事は、「街中スローガン」の印象
だった。
中国民族は漢字の国。
考えてみれば日本の格言や、いわゆる四字熟語と称する教訓も、そのほとんど
のルーツが中国であることを考えると、中国は古代よりスローガンの国ではな
かったのだろうか。
それはその時代時代の為政者達により、人民を統帥するプロパガンダとして利
用されてきた伝統のようにも感じた。
それ以前に度々訪台していた私は、台湾でも「街中スローガン」の印象を持っ
た。所謂「三民主義万歳」「大陸反攻」「光復大陸」「共匪殲滅」等々。
これを見るとスローガン大書は、漢民族の共通的、伝統的政治工作の手段なの
かも知れない。
しかし台湾の某経営者は、工場の塀に大きく画かれたスローガンをさして「こ
れを書くとお役所の受けがよいのよ」と苦笑していた。
その辺りが真実のようだ。
広州散見で街中スローガンの事だけを書いた。
宿舎東方賓館は市の北部にあり、汽車の駅や空港には近いが、住民の居住区で
ある市街地とは少し離れている。
だから簡単にホテルから歩いてぶらっというわけには行かない。
だからタクシーを利用することになるが、これが少ない。
流しを拾うというというシステムは許可されておらず、結局ホテルの玄関に並
んで車を待つ以外にない。
運が良ければ5分間、悪ければ一時間近く待つことになる。
こんな状態で当初ゆっくり市中徘徊などは望むべくも無い。
結局タクシーに乗ったまま、南方らしい檳榔樹の巨木が多い町並みと自転車の
群と、スローガンの多さに驚き、結局最初の市中見学は終わる。
★ 広大な公園の朝と夜
東方賓館は今日の冒頭に書いたように、正面に貿易交易会の大会場があるが、
東側は越秀公園、西側に流花公園という、とてつもない広大な公園に、東西が
囲まれるように立っている。
流花公園の方はその面積の90%位が、流花湖と言う巨大な池が占めており、
越秀公園は逆に公園全体が小山といえるほどで、その中に一寸した山あり谷あ
りで、何れも市民の憩いの地ではあるが、その憩い方は端的に言えば二通りで
あることは、何度か公園へ通うと直ぐ判るのだ。
早朝5時公園は開門される。
待ちかねたように市街地から自転車やバスでやってきて開門を待っていた人々
は、どっと入ってくる。
この人達は90%以上が、定年退職(男性55歳、女性50歳)した年金生活
者だ。
彼らのほとんどは、それぞれのサークルに所属しており、そのサークル毎に集
まって、一斉に体操を開始する。
ほとんどが我々が通称して呼んでいる太極拳であるが、それでも各流派がある
のか、あちこちで体を動かし始める。
その他剣舞、拳法と様々だ。
後は日没近い頃より公園は、第二部の舞台となる。
言わずと知れた若いカップルにより、この広大な公園の木陰や池畔の全ては埋
め尽くされるのだ。
さすが巨大人口国中国だ。それも他国と異なり、男性は全部人民服であり、女
性も同様な服装で上着を取れば男女とも白のシャツ。
この暗がりで良く相手を間違えないものかと感心する。
お互いの行為は可成り濃密に進展するそうだが、それも10時になれば突如無
粋にも閉園を告げる大アナウンスと、革命歌らしいものが鳴り響き、それを合
図に若者達は立ち上がりる。
そうして園外に止めておいた自転車で一斉に家路につき始める。
この朝の公園と夜の公園には共通の関連があるそうだ。
狭い家(大体二間)での大家族の中、朝は年寄りが気を利かし外に出て、若い
二人のゆっくりした朝寝の愉しみを作ってやり、夜は若い二人が、外で恋を語
り、家で早寝の年寄りに憩いを提供すると言う意味もあるのだとは、後日親し
い中国人から聞いたが、そんな美談は何処までが本当だろうか。
日本人の我々の仲間で、わざわざ人民服を買い、中国人を装い夜の暗闇の公園
を逍遙徘徊し、その実態観察を続けた好き者がいた。
しかし当時我々出張者にとって、仕事と夕食後は、ホテル内にバーすらなく、
部屋は暗く読書も出来ず、室内で仲間と一杯飲む以外、何の愉しみも得られな
かった中で、せめてホテルに隣接する夜の公園での、不逞な実態観察以外は、
全く楽しみのかけらも得られないそんな時代であった。
越秀公園は先に述べたように、公園内はアップダウンが激しい。
その為石段を多く作っているのだが、私は足下の石段を眺めながら登っていた
ら、その石段に何か字が掘られているのに気づいた。
一段ずつ字も違うわけだが、よく見ると間違いなくそれは墓石だった。
墓石を片端からぶっ倒し、それを並べて石段にするなら、確かに手っ取り早く
出来上がるだろう。
共産主義にとって宗教は麻薬であり、百害有って一利無しとのかけ声で、文革
時代随分多くの寺院や仏像その他文化遺産まで破壊された話は当時仄聞してい
たが、それからすると個人の墓など、全て倒して人民の公園の石段に利用する
くらい、実に簡単なことだったのだろう。
あの墓石は今もそのまま置かれたままになっているのだろうか。
公園のことを述べたついでに思いだし、書きつづっておきたくなった。
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<<あとがき>>
スローガンに埋め尽くされたような、共産主義国家中華人民共和国の華南の大
都市広州に始めて第一歩を印しました。
我々のホテルは勿論外人専用なのですが、それだけに内に対しても、又外部よ
りの進入に対しても、厳しいチェックをしているのは直ぐ判ります。
各フロアーのエレベーターホールには、必ずデスクがあり24時間服務員が居
て、何を監視するのか、終始乗降者を見張っています。
部屋の中やエレベーターの中にも、隠しカメラ設置の恐れもあるから、十分注
意するよう先達の方々よりの注意もありました。
ホテルの玄関、更にゲートにも数人の監視者が居て、特に一般中国人の入館は
まず不可能なようで、まるで犬でも追うような邪険な手つきで追っ払っていま
す。
ホテルの服務員達も、我々の問いかけに対し、恐らく上部よりの厳命でしょう
が、一切の無駄口もきかず、笑顔も見せず、ただ必要な用件のみすませば、急
いで持ち場を離れていきます。
そのような凡そ感情のない規制された社会の中で、あの暗闇の公園での無数の
カップルの行動だけが、凡そ人間らしい情感を見た思いがして、なにやらホッ
とした気分になれました。
遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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