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                            遊 庵 散 人
         ---------- China,20years ago ----------
           殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
         1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
    
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創刊号を出して

昨年の丁度クリスマス前後に創刊号を出しました。
その前後より早何人かの見知らぬ方より激励のお便りを頂けたのは、私にとっ
ては全く望外の喜びでした。

そのメールの多くは“10年前頃より対中貿易に係わっているのだが、その前
の状況を知りたい”という方々が多く、中には“父はその頃中国へ出張したが
それまでの海外出張より帰国した時と全く違って、小学生の私にもなにも旅の
出来事について一切喋らず、写真も無く不安を感じた記憶がある。
その頃の実態を知りたい”というような切実なメールも頂戴しました。

創刊号は1978年9月香港との国境を荷物を両手に持ち深セン川の鉄橋を、
徒歩で中国側に入境した所まで書きました。
第2回は予定を変更し、少し話を戻し日本を旅立つまでの様々な問題から書き
たいと思います。
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本号の内容

◆◆ 訪中準備…この段階から“いらいら”が始まる

  インビテーション・ビザ発給
  二重パスポート

◆◆ 入国審査の驚き「我々は国賓?」

  入国の緊張
  共産主義は資本主義大企業の友人?
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◆◆ 訪中準備…この段階から“いらいら”が始まる

  インビテーション・ビザ発給

当時中国入国のための手続きから説明しょう。

☆当方より訪中者の氏名、職階、生年月日、旅券番号、訪中目的、訪中希望期
等を記入し中国側取引公司へ入国の申請を打電する。

☆公司はこれを了解したら日本の中国大使館に対し、我々にインビテーション
を出し、大使館はそのインビ到着を我々に連絡する。

☆我々はパスポートを大使館へ持参し、それによりビザの発給を受ける。

こう書けばいとも簡単そうだが、普通この手続きに約2ヶ月は必要となる。

今もあの国は厳然たる社会主義国家である事に変わりはないが、当時はそれこ
そ完全な共産主義国家であり、全ての処理は公的機関即ちお役所である。
我々の出した申請書は、幾つかの部、科を経て極めて多くの人々のサインを得
て決済される。
その間の決済の遅滞振りは、想像できるであろう。

我々が、我々の窓口である公司の営業をプッシュしても、答えは「私は回した
よ」その一言が返ってくるだけ、彼らにすれば自分の所から次ぎに回せばそれ
で終わりなのだ。
今どの辺で決済され、何時頃発信が可能なのか、凡そ無関心で彼ら自身も判ら
ないのが実情の様だ。
この様な困難さは仕事が進むに連れ嫌と言うほど味わうこととなる。

結局我々は仕事の都合上、出発の日程がさし迫り、矢も楯もたまらず六本木の
中国大使館にインビ着信確認のための日参をせざるを得なくなる。
時には緊急出発の必要性を認識させるため、大使館にスーツケースと航空券を
持ち込んで、早期確認を促す等の芝居じみたことまでした記憶もある。

これらの中国よりの電信が入る場合問題がある。
中国は漢字の国、従って漢字を全て四つの数字で表現した暗号の様なマ電と称
する文章でくる。
それだけに余計面倒だ。
時には大使館員の了解を得て、我々自身でマ電を漢字に転換された、汚い入電
のファイルをくりながら、必死で我が名を探し出すことも屡々経験した。
午前、午後と二度電信が入りファイルされると聞き、日に二度通った事もあっ
た。

殆どは見あたらず落胆し帰路に就く毎日が続く内、やっと自分の名の記述され
た電信を見つけだした際の喜び(?)、ようやく旅券にビザの捺印を受け、ホッ
とするまでのイライラと苦痛は大変なものだった。

この様な状況なので、訪中するには少なくとも2ヶ月前からの準備が必要とな
る。
少し訪中回数が増え、馴れてくると訪中の際現地の公司に対し次回のインビの
発給を直接依頼して帰る様になり、少しはその待機期間も短縮できる様になっ
た。
しかし常にマルチビザを持ち、航空機の座席さえとれればその日にでも飛べる
現在とは正に隔世の感ありの思いがする。

  二重パスポート

時に国家間の取り決めはナンセンスな事態を引き起こす。

現在もそうであるが中国は厳然として「一つの中国論」を国是の中心としてこ
れを堅持している。
日中国交正常化も、この年調印された日中平和友好条約も、この中国の主張を
日本が全面的に承認し成立したことは御承知の通りである。

従って過去に台湾を訪問した日本人は、訪中する資格がないという訳だろう。
我々周囲の業界人達は、嘗て殆ど業務上訪台経験を持っており、その数次旅券
にはベタベタと台湾のビザや出入国印が押されているのは当然である。
しかしその旅券では中国のビザは発行して貰えないのである。

それでどうしたか。訪中の度に日本外務省(各都道府県の出先機関)へ出頭し、
所持している数次旅券を一旦預け、その上で別に一次旅券を申請する。
それにはやはり一般旅券申請と同じ書類、写真、手続き、期間そうして費用が
必要なのは当然である。
そうしてその新しい一次旅券に中国のビザの判をもらい、いざ出発となる。

そうして帰国すれば、当然その旅券をまた旅券発給オフイスへ持参し旅券使用
済みの刻印を受けた後、預けてある元の数次旅券を返してもらうという次第と
なる。
これを訪中の度に繰り返し行う訳だからとても煩わしく面倒なことだった。

こんな煩雑なからくりの実情は、日中双方共知っている筈なのだが、その面倒
なからくりにより中国側は面子を保ち、日本側は日中協約の実行のゼスチュア
を示し双方納得という訳なのだろう。

今私の手許には、当時の一回きりの中国出張用使用済み旅券が、あの頃の記念
品の様に十数冊残っている。

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◆◆ 入国審査の驚き「我々は国賓?」

  入国の緊張

「思想や政治」−−の話題は絶対口にするな。
「戦争」−−−−−については一切触れるな。
「支那や支那人」−等は間違っても言うな。
「台湾」−−−−−の事は一切知らぬ振りをしろ。
「揚子江」−−−−とは言うな。今は長江という。
「満州」−−−−−は禁句今は東北三省である。

−男性も女性も相手を呼ぶ時は身分の上下を問わず「同志(トンジー)」。

出国前聞かされた中国訪問の際のタブー集。
その内の記憶に残る一部を上げても以上の様な事になる。
こちらは商売に行くのだから、何も人の嫌がることを言う気持ちは更々なかっ
たし、ましてや我々商人にとっては「思想、政治、戦争」等は無縁に近い様な
事だった。
断られる迄もなくこちらから喋ることはないだろう。

しかし当時の単純な私の頭では、英語の Chinaはチナ即ちシナの変化でないの
か? 新中国発行の中国地図英語版では、何故長江を Yang Zi Riverと表示し
ているのか?
何よりも共産主義者でもない私が、何故他の人を呼ぶ時、同志と言う必要があ
るのだろうか?
中国語には若い娘さんには「小姐」という呼称がある事位は、過去の台湾業務
の経験で知っている。
それが何故駄目なのだろうか?

この様な事前に聞かされた一寸理解し難い多くのタブー、禁句が国境を越し、
初入国する人達の心を極端に重く、不安にしたのは事実だった。
その反面未知の世界に足を踏み入れる興奮に、ともかく極度の緊張感に襲われ
たのは事実だった。

  共産主義は資本主義大企業の友人?

深センの入国審査の建物は、三階建て位だがでかい建物だった。

高度成長期中の当時の日本の新築ビルは、ビル全体は巨大でも内部はその合理
性を考慮して概ね天井は低く、極めて効率性を重視した、どちらかいえば“や
やせせこましい”感じの建物が多かった。
それにある程度馴らされていた日本人にすれば、約2倍はある天井の高さと、
内部は壁面を飾る毛沢東のでかい肖像画以外、全く何も無い様な無味乾燥な広
大な空間だけの部屋に先ず戸惑い驚かされた。

香港より同じ列車で到着した数組の日本人入国者は、それぞれ別部屋にわけら
れる。
不思議なことに香港で預けた我々の荷物は、既にその指定された部屋に積まれ
ている。
やがて旅券チェック、税関と続くコースは殆ど双方無言のままで進んでいく。
何も喋らないことで、決して上質の物とは言えないグリンの制服を着た税官員
の威厳を示しているようにも思えた。
しかし何事もなく通関できる嬉しさに先ず安堵の感を持った。

ところがその時一人の検査官がいきなり、きれいな日本語でこう叫んだ。
「あなた方の会社は日本を代表する巨大な企業です」私は一瞬ドキッとした。
相手は資本主義を敵とする共産主義のチャンピオンだ。
その資本主義の代表的企業に何を言い出すのか。
「このまま帰れ」とでも言われるのか! 

更に言った彼の言葉に又驚いた。
「我々は世界と貿易を拡大したいのです。そういうとき、貴社のような偉大な
会社を通じ、貿易拡大をはかれることは、我々にとってはこの上なく嬉しいこ
とです。我々はあなた方を歓迎します」私は唖然とした。

そうして彼は最後に言った「これは先月決定した党中央の方針です」と。
これらのことを教科書を読む調子で正確な日本語で言った。
これがどうやらいとも簡単に通関がスムーズにいった原因らしい。

共産主義国家は縦割り組織社会、中央の決定が素早い上意下達の組織の中で、
北京の決定が即深センの税関まで徹底する見事さ、それは逆に北京で「ノー」
と出れば、即全国中「ノー」と伝わるだろう恐ろしさも、その後の中国ビジネ
スで度々経験することになる。
正にこれがその最初の経験だったと言えるだろう。

通関が終わり一室へ案内される。

やがて、頼みもしないのに中国料理の数々のお皿がテーブル狭しと運ばれてく
る。どうぞ昼食をというわけだ。
深センより広州へ向かう特急の出発時間まで、未だ三時間近くあるとのことで
取り敢えず出された昼食を取る。

食事後は外部へも出られず、室内で時間を持て余している内に「乗車」と告げ
にくる。
程なく列車は動き出す。
広軌鉄道の客席4列しかもゆったりしたリクライニングだから、極めて優雅な
列車の旅だ。

ただお断りしておくことがある。
香港出発の前日我々は中国国際旅行社に出向き、広州への列車のチケット等を
購入する必要がある。
はっきりした記憶はないが、大体100元程度であったと思う。
九龍−羅湖 深セン−広州間のチケット代は、チケットに定価が印刷されてお
り、それはせいぜい5元程度だったと思う。
だから後は、アテンドフィーと明細には書かれているが、いうなればそれが深
センでの食事代であり、豪華な応接間での列車待ちの休憩代や、荷物が自動的
に広州のホテルまで配達されるサービスの代価になっている仕掛けの様であっ
た。

車窓から見る初めての中国農村風景、余り日本と異なる物ではないが、当時の
中国での農作業はすべて人民公社による集団作業。
だから日本の農村のように、あちこちで数人が作業している光景はない。
作業しているのは何処も数十人或いは数百人の集団による作業風景が異常だっ
た。
列車は、深センより約3時間、夕暮れの中を目的の街「広州」に近づきつつあ
る。
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<<あとがき>>

私の初訪中の記録は、ようやく最初の目的地、広東省の省都広州に到着しまし
た。
これからはあの当時の、そうして現在の中国でも、想像もできない、不思議な
そうして奇妙な体験の数々を、記憶を呼び戻しつつ、発表していきたいと存じ
ます。拙文ですが御一読いただければ有り難いと存じます。

勿論あの頃の中国を私以上に詳しく御存知の方も多いわけで、私のメルマガを
ご覧頂き何かお気づきの方、御意見のある方、メールを頂ければ真に幸甚と存
じます。

                           遊 庵 散 人
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
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