☆ スペースインベーダー狂騒曲 ―――――――――― 2008/02/01
by 老玩童 OJIN
そうして待っていると、、またU氏が「今度こそ間違いないから!」。さらに
ユニバーサルの営業マンまで「ウチでも作っててもう直ぐできるから買って」
まあ、タイトーには義理があるわけでもないし、今までのお付き合いでいろい
ろお世話にもなってるし、、ということで、またまたブランズウィックにゴメ
ンナサイ!――――そして待ちに待ったセガのものが出来上がってきました。
それが、
オリジナルとは似ても似つかぬ超駄作!!業界で「セガのブタ殺し」とアダ名
されたゴミ同然のシロモノでした、、、。ならばユニバーサルのはどうか?
間もなく出来上がってきたユニバーサルのものは「ユニバーサルの床掃除」と
いわれた、セガよりはまあマシでしたが、やっぱりかなり見劣りする、、、。
慌ててブランズウィックに3度目の正直・・・その頃にはもう、世間に知られ
るようになっていて、、、納期は3ヶ月も先、、、。
他人のせいにしても埒もないことですが、最初の予約がそのまま入荷していれ
ば、50台×1万円/1日×3ヶ月=4500万円、さらにそこからのセガや
ユニバーサル製品との売上額の差、を考えると、何億かを儲け損ねてしまった
わけでございます。(-ε- )
このスペースインベーダーがいかにもの凄い人気であったかは、それ以前のセ
ガとタイトーの全国シェアは、ほぼ6:4以上であったものが、この1機種で
4:6以上と逆転してしまった、、ちょうど、アサヒビールのスーパードライ
ぐらいの超ド級の大人気商品でした。
さあ、それからはもうセガのもユニバーサルのも頼ってはおられません。そん
なものを頼っていたんでは、既存のロケーションまで他社に食い荒らされるの
は目に見えていましたから、東にデッドコピー屋の機械が今日何台出来上がる
と聞けば現金懐にトラックで乗りつけ、
西に、どこそこ業者のところにタイトーのオリジナルが何台入荷すると聞きつ
けたら、やっぱり現金懐にトラックで乗りつけて、定価よりもさらに何十%上
乗せ値段の札束を机の上に積み上げて、脅してすかして泣き落として集めてく
る毎日。
なにしろこのインベーダーフィーバーのときには、ヤクザ屋さんが現ナマ札束
を持って、俺にもインベーダーを売ってくれ、とやってきたり、ゲーム機業者
直営の、例えば平塚ゲームセンターなどに、ウチの組のインベーダーを何台か
置かさせろ!と強要してくるなど、正に狂乱状態でした。
平塚の場合など、小田原と同じ稲川会系でしたが、やっぱり稲川会の中でも武
闘派でならした組で、そんな要求を無視していたある日、ゲームセンターにい
たところを「ちょっと顔かして下さい」と腰低く案内されてついて行ったら、
組の事務所に連れ込まれて、言うことを聞かないと、相模湾に沈んで頂くこと
になりますよ、とか、さんざん脅されて、それでもなんとか頑張りぬいて戻る
ことはできましたが、帰り際に、それこそ常套句の「オレは堪えたが、血の気
の多い若い者が暴れるのまでは管理しきれないから、夜は特に注意しなよ」
さあそれからは、いつも車の後ろに注意を払い、夜間はなるべく平塚方面には
行かないようにして・・・と、ブームが過ぎ去るまで神経をピリピリに張りつ
めていなければなりませんでした――――。
そんな努力で、なんとか既存のロケーションが他社に食い荒らされるのを防い
でいたある日。
後楽園パチンコ店の専務の父親が、東海道線大船駅前でパチンコ店をやってい
るが、パチンコ店としては規模が小さいので郊外の大型店に押されてパッとし
ないから、インベーダーゲーム店に鞍替えしようと考えているんだけどやるか
い?ーーーという話が降って涌きました。
東海道線の大船駅前ならば超一等地、売上1千万以上は石橋カンカン!しかし
小さいとはいえパチンコ屋だから50坪以上はある。坪1台にしたって50台
ものインベーダーを揃えられるのか??
そのパチンコ店は、韓国人と日本人の共同経営でしたが、主導しているのは韓
国人の親父さん。この人がいい人で、息子が信用しているんだから、やり方は
君に任せるから、ともかく売上を上げてみなさい。
それでも、相変わらずの札束懐買出し作戦のお陰で、開店までなんとか半分ぐ
らいをインベーダーで埋めることができて大成功!ーーーこの縁から、以後、
南鮮=韓国系の人脈と深く繋がっていくことになるのです・・・・
当時、もうひとつ大失敗したのは、このインベーダーと相前後して、ナムコが
「ジービー」という、TVピンボールともいべきゲーム機を売り出しました。
OJIN は、この商売を始めた当初からピンボールにはひとかたならぬ思い入れ
があり、事実それで成功してきていましたから、この「ジービー」に惚れこん
で大量契約をしました。
もしも、、インベーダーと発売時期が重ならなければ、ジービーは一応以上の
ヒットマシンになれたことでしょうーーー。しかし時期が悪かった、、アサヒ
スーパードライと同じ時期に売り出された他社の新銘柄が鎧袖一触で薙ぎ払わ
れたように、泣かず飛ばずで終ってしまいました――――。
この何年後だったか、倉庫の点検をしておりましたら、ダンボール詰めのまま
のジービーの未使用新品が、腐れかかった外側のダンボールに包まれて20台
以上積まれたままになっておりました――――。
そんな頃、セガからの機器買上げ額全国上位15社のうちの1社として、箱根
のホテル小涌園で’78優秀オペレーター表彰を受けました――――。
表彰式の記事(この記事は業界誌「アミューズメント産業」に掲載されたものです)
さて、喫茶店マーケットでのシェア争いも、相変わらず激しく続いていました
が、テーブル型ブレイクアウトで、他社に先駆けていち早く積極的に乗り出し
ていて、神奈川県下ではある程度以上のシェアを確保していた有利さもあって
タイトーのスペースインベーダーというマンモスヒットの時期にはさすがに苦
戦はしましたが、それでもなんとか凌いで、
なにしろこのときタイトーは、業者への販売分を削って自社レンタルの拡販に
使うという、それまでの業界常識を覆す乱暴な手段で営業攻勢をかけていまし
たし、
当時のタイトー本社販売部長の一の子分で、ウチとの確執の原因になったF氏
が独立して業者になっていましたが、彼のところには、他には回ってこないの
に10トントラックで続々とインベーダーが入荷してくる・・・背に腹は代え
られず、札束を懐にして、
「や〜Fさんご無沙汰ですね〜、景気がいいって聞いたんだけど、ウチにも回
してもらえませんかね〜♪」
「お〜ほんとにしばらくね〜、神奈川の帝王の噂は聞いてますよ〜大活躍みた
いですね〜、んで、いくら持ってきたの?」
「さすが切れ者は話が早い!2千万置いてくからさ〜、で、いつもらえる?」
「2千万分はちょっと重いな〜、1千万置いてきなよ」
「OKOK!で、今週いける?」
「う〜〜ん、今週来週再来週、3週間でどう?」
「OKOK!で、あとの1千万はどうする?」
「う〜〜ん、ここ2、3日の荷を友達のXと約束してるんだけど、あいつ営業
力ないから余ると思うんだけど、どう?プレミアつけてあげられる?」
「OKOK!じゃーこの1千万も置いといたほうがいいね〜♪」
ーーーこんな感じでございましたーーー
= つづく =
┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃ ┃ 老化防止の頭の鍛錬のお奨め。
┗━┛ ┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」
ーーーしかし人間の頭脳なんて不思議なものでございますね〜〜
「我が人生三分の二故事」もようやく30才ぐらいにまで至ることができまし
た。で、書き始めの頃は、そんな‥‥思い出せるだろうか??
と、いつかお便りを頂きました爺さんみたいに思っていたんですが、実際に書
きだしてみましたら、その当時のことが次々と思い浮かんできて、一言一句ま
では兎も角として、その時その人の話した口調やアクセントまで思い出されて
くるんです!
だから爺さんなんかも、実際に書いてみられたらいいんじゃないかと思うんで
すよ〜。多分 OJIN と同じように、その場面その場面が次々と蘇えってくると
思います。----ウソだと思ったらお試しあれ。(^^)
でも、書き留めないとダメですよ。書き留めないと、浮かんではくるんですけ
れど、次々に消えていく、のがひとつと、書き留めないと、その状況のさらに
細かいというかプラスアルファの部分が思い浮かんでこないんです。
時期的に前後関係がどうだったかな??という場合には、なにか記録的なもの
・・・自分が控えていたものとか、その頃の社会事象の記録なんかをひっくり
返してみると、断片だった、事象と事象同士がだんだんと繋がっていきます。
今は故人となられましたが、「満州回顧録」を書かれたときのGOSAKUさんも、
多分同じではなかったのかな、と想像しています。
満州回顧録のページには「アメリカ軍側から撮影されたカミカゼ特攻」の動画
も埋め込んであります。その、突っ込んでいく特攻機に乗っていた若い操縦者
がどんな気持でいたのかを想うとき、涙なくして見ることはできません‥‥‥
OJIN の父親は、旧満州国黒河省黒河で、満ソ国境守備部隊に所属しておりま
した一兵卒でしたが、終戦の僅か数ヶ月前に病をえて内地療養命令により送還
となり、結果としてシベリア抑留を免れました。
今の人ならば、なんと幸運なと思われるかもしれませんが、
OJIN がラジオの戦記番組を聞いているときなど、何度も何度も(自分が病気
になって内地送りとなって一緒に戦えなかったことを)「戦友の皆には本当に
すまないことをしてしまった‥‥」と呟いて肩を落としておりましたーーー。
当時の日本軍人は「戦死もせず、シベリア送りに遭わずに俺は幸運だった〜」
ではなく、一兵卒に至るまでこういう気持を持っていたのだと思います。
・
・あれ?何の話でしたっけ?
そうか、
人の頭脳の不思議についてでした‥‥‥
日記をつけておられる方は別として、そうかな?と思われましたら皆様も試し
てみられるといいですよ。 ーーー老化防止の頭の鍛錬にもなりますしーーー
└──────────
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┌──────────「爺さん」
OJIN さん、こんにちは
「人生の三分の二」面白く拝見しています。
OJIN さんの言われるとおり、時々何かきっかけを思い出すと、次から次へと
予想もしなかったことが思い出されてくる。ーーーけれども朝になったら、何
一つ思い出さない。
時々短編をメモるのですが、次回続きを思ったときはそのメモはどこかへ。
これなら OJIN さんの真似ができるかと思う時もあるのですが、なにせ手術の
あと、今やっと身体が復元しつつあるところ。GOSAKUさんのあとを追うにも身
の回りの準備もしなければと落ち着きません。
「我が思い出の人生」そのうちに挑戦してみたいと思っています。
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┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」
ーーー挑戦して頂けるようですのでコツをひとつ。
「朝になったら何一つ思い出さない」ーーーこれは OJIN も同じです。ただそ
の、寝る前や起き掛けのときに思い浮かんだことというのは、元々自分の頭の
中に沈んでいたものだから浮かんでくるようで、
起きるときれいサッパリ忘れていても、その頃のことを書いていると、ポッ!
ポッ!と、湧き出てきます。人の名前なんか特にそうで、50年も前の小学校
の先生や同級生の名前なんかもう頭の記憶庫の奥の奥の奥の奥、、でも消えて
はいないんですよ。
最初は曖昧模糊としていますが、何回か推敲しているうちに、オッ!新津喜美
子さんだった!と、突然浮かんできます。
爺さんの場合でしたら、青島海軍航空隊で終戦を迎えられたわけですが、あま
り前後に拘らずに、現地の人々との交流の様子とか、胸トキメかせた女性との
想い出とか、引揚げ後入植された美瑛町での苦闘の様子とか、・・・大丈夫で
すよ、もう何をバラしても、
鬼籍に入られたり爺婆になってますから、怒られることはないでしょう。(^^)
ーーー爺さんにも、GOSAKUさんを決断させたひと言を贈ります。
「貴重な体験を子孫に残さず、一人で抱えて墓場へ持っていくんですか!」
何の手術をされたのか存じ上げませんが、お身体ご保養なさって下さい!
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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