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┃ ☆ 金 曜 版 ☆ ≪ WEB 熱線 第544号 ≫2005/04/15_Fri ++++ ☆
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┃ ☆ WEB 熱線 ☆ ―― アジアの街角から:亜洲街巷信息 ―― ++++ ☆
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┃▼▽ 祖父の朝鮮・満州懐旧談録 ▽▼ by hideおじさん
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☆ 祖父の懐旧談録:朝鮮編「強制連行と帰国事業(1)」―― 2005/04/15
―― 祖父は昭和21年秋、日本に帰ってきました。
釜山から下関に向かう船の中から、遠ざかる朝鮮の景色を何時までも眺めてい
たそうです。20年以上朝鮮、満州と渡り歩いた人ですから、いざ大陸を離れ
るとなると、後ろ髪を引かれる思いがしたのでしょう。
内地の風景が見えるようになると、船の乗客からは「万歳!」という声が上が
ったそうです。しかし祖父は、安心したという気持ちの一方で、内地が外国の
ようにも思えたとも話しておりました。――終戦から1年、人生の中でこれほ
ど長い1年は無かったと振り返っておりましたが、韓国の行く末が非常に心配
だったとも言っておりました。
実際その後、朝鮮半島では内紛が起こり、挙句に北と南と別れての朝鮮戦争が
始まり、祖父の心配が不幸にも的中してしまったのです。この朝鮮半島におい
ての終戦直後の状況がその後の「帰国事業」にまで影を落としてしまったこと
に気が付く日本人は少ないかもしれません。
懐旧録の中で、「帰国事業」と、今も問題になっている「強制連行」について
少しお話しさせて頂きましたが、いま少し詳しく、私見を交えてお話ししたい
と思います。
先にお断りとして、私の手元には「強制連行」「帰国事業」と、在日の方々の
歴史にについてある程度の資料を持っておりますが、それを全てご紹介するに
は、本メルマガに対して膨大な時間と誌面をお借りすることになりますので、
本寄稿には極々一部しかご紹介出来ませんことをご了解願います。
戦中、祖父は満州におりましたので、戦中の朝鮮総督府動向の詳細は正確には
把握していなかったと思われますが、だいたいのことは総督府の同僚から聞い
ていたそうです。
後々問題となる「強制連行」についても、祖父はいろいろ語っておりました。
祖父が帰国してから暫くは、「強制連行」なる言葉すら存在していなかったと
言っておりましたが、当時の日本は勿論、韓国人でさえ「強制連行」などとい
う言葉は使っておりませんでした。―――いつの頃からこの言葉が世に出てき
たのかは分りませんが、少なくとも私が高校生だった頃の歴史教科書でも強制
連行、強制労働のような単語は見た記憶がありません。
祖父が初めて「強制連行」なる言葉を耳にしたとき、その意味すら気にも留め
ていなかったように見えました。実際、後になって騒がれてからもシリアスに
は考えていなかったようです。
ーーそれだけ現実味の薄いものと祖父には映ったのかもしれません。
―― 祖父によると、
朝鮮人の生活が安定し人口が増えてくると、余剰労働力が生まれてきました。
特に朝鮮の農村部においては余剰労働力が増え続け、この労働者をどのように
吸収するかで非常に頭を痛めたそうです。祖父が在籍していた文教部において
も、学校の用務員として雇うとか、いろいろ話はあったそうですが、実際には
「焼け石に水」で根本的な解決にはならず、うやむやのまま時間だけが経って
しまったようです。
いつの時代でも失業問題は大きな問題であり、抜本的な解決が出来ない総督府
に不平不満がぶつけられたようです。とにかくまだまだ発展途上であった朝鮮
の、内部だけではこの余剰労働力を吸収できず、一部は満州や北朝鮮国境周辺
への移住や、日本への出稼ぎという形で幾分かは吸収されたものの、後々まで
抱えることになった大きな問題のひとつになったようです。
当時、日本の経済状態も、また日本を取り巻く世界情勢は厳しいものがあり、
内地だけで失業問題を解決するという状況ではなかったこともあるでしょう。
朝鮮総督府と内地政府との間でも、相当のやりあいがあったようです。
その折衷案として出てきたのが「志願制(募集)」というものだったそうです。
先にも書いた「出稼ぎ」を、政府統括として計画的に行なうことにし、内地の
雇用状況に与える影響を極力押さえながら、朝鮮における失業問題の解決も計
るとしたものです。
しかし朝鮮内部では、盛んに「内地に行けば儲かる」ということが話題になっ
ており、半ば常識となっていて、朝鮮人の中には、家財道具一切を売り払って
日本へ渡ろうとする人たちも多かったそうです。
このような人たちが際限なく増えてくると、内地での雇用状況が悪化するのは
当然のことであり、内地政府からは、総督府へ何度も規制を強化するよう通達
がなされたそうです。
実際、内地へ渡航するには、いろいろクリアしなければならない基準があった
そうです。しかし、その基準をパスした人々はそう多くなかったようで「最初
はせいぜい数万人程度じゃなかったかな」と祖父は言っておりました。
ところが戦後、在日といわれる人々は200万人とも言われておりますので、
非常に矛盾する話になってしまいます。実際には内地で新しい家族が生れた、
朝鮮から家族・親戚を呼び寄せた、等の自然増を考えなければなりませんが、
日本に渡ってきた朝鮮人の多くは、規制の網の目をかいくぐって内地に渡って
きた人々が相当数いたと考えるのが自然ではないでしょうか。
ただ、太平洋戦争が始まってからはこの「志願制」による労働力の確保が重要
な手段のひとつとなったために規制も緩和され、それにつれてその数も大幅に
増えていきました。――最初は数万人程度だったものが、数十万となり、最終
的には200万人という数字になっていったのではないでしょうか。
昭和19年になると「志願制」から「徴用制」となり、法的強制力のあるもの
へと変化していきました。最初は「来るな」としながら、戦争が厳しくなると
「必ず来い」となると、朝鮮人としては心中穏やかならずだったとは考えられ
ないでしょうか。
ただ、
「志願」と「徴用」は、分けて考えなければならない問題だとと思います。
ーー志願というのは文字の通り「自分の意志」があって成り立つものです。
例え、周りの雰囲気から志願せざるをえない状況であったとしても、志願では
何の法的強制力もなく、事実、嫌ならば辞めるということもあったようです。
日本に渡ってから、労働条件が合わずに職を転々としたというのもよくあった
ということでした。
しかし、徴用となると、これは法的強制力を有するものですから、違反すると
懲罰があります。逃げ出すことはもちろん、勝手に職場を変えることもできま
せん。戦争が厳しくなっているので、嫌々内地に渡る人も多かったでしょう。
誰も、好き好んで危なくなってき始めた内地に行きたいとは考えないと思いま
す。ーー何とか逃れられないかと考えるのが普通の感覚ではないでしょうか。
日本でも、醤油を飲んだとか仮病を装って徴用、徴兵を逃れたなどという噂は
よく聞いたものです。しかし、バレたら懲罰です。逮捕されても文句は言えま
せん。それがルールとされていたのなら、不平不満があったとしても勝手に破
ることや、後になって文句を言うのは「フェア」ではありません。
軍や憲兵が怖いから仕方なく応じたという声も聞かれますが、それなら「何故
反対に立ち上がらなかった」と言いたいです。例えそれが失敗に終わったとし
ても、その後のあり方に大きな変化があったはずです。
記録を眺めてみても、当時の半島人は、志願にしても徴用にしても、粛々とし
て受け入れていたのです。それを今になって「強制連行」だとするなら、逆に
では「朝鮮人の誇り」はなかったのか?と返したいところです。――しかし、
好き嫌いに関らず、こういった徴用に対する風景が「強制連行」と受取られる
ような誤解を後に生んだとするなら、当時の朝鮮総督府・日本政府の説明不足
と、韓国人の認識不足という両面から再検証する余地はあるかもしれません。
しかし、そうした様々な誤解があったとしても、今で言うような「人狩り」の
ようなことが行なわれていたとはどんな記録にも残っていません。伝聞の記録
には「隣の村ではこんなことがあった」という話はありましたが、それを全て
真実として「歴史的事実」としてしまったら、現在の歴史そのものを根底から
見直さなければなりません。ーーそれでは歴史云々以前の問題になります。
どちらにせよ100万単位の人々が日本政府のルートで朝鮮半島から強制的に
「連れられて来た」と考えるのにはどうにも無理があるように思えます。
徴用が行なわれる以前はというと、先にお話しましたように、条件を満たして
日本内地へ渡って来られる人以外は、多くの場合非公式に渡って来たことにな
ります。
同じ日本人といいながら規制するというのは、当時の内地の経済状態を考える
と致し方ないとはいうものの、同じ「日本人」としながらこれは差別といえば
差別といえるかもしれません。
非公式に内地に渡ってくる人たちは、当然朝鮮に戻されることになるわけです
けれども、政府は、これらの人たちに幾許[いくばく]かのお金を与えて送り返
したそうです。―――ただ祖父によると、朝鮮にも、今でいうところのブロー
カー紛[まが]いの、日本へ渡航させる業者がいたようで、随分トラブルがあっ
たと言っておりました。
ーー手付金だけをせしめて、後は知らん顔という悪徳業者もいたようです。
このような悪者に騙された人も少なくなく、このような人たちが戦後反日感情
を抱くようになったとすれば、非常に残念なことです。一般的に強制連行とい
うと、日本人がやって来て、嫌がる朝鮮人を有無を言わさず連れて行くという
イメージですが、祖父に「そんなアホなことができるか!常識で考えて見ろ」
と言われたことがあります。
当時、朝鮮に住んでいた内地人は、全朝鮮人口の3割もなかったはずだと言っ
ていました。例えば国民学校でみると、50人のクラスで、日本人は多くても
5人ぐらいだったといいます。――圧倒的に日本人が少ない状況で、不平不満
が嵩[こう]じれば、小競り合いなどではない暴動が起こったとしても不思議で
はありません。祖父は「朝鮮人はそんな腑抜けじゃない!」と強く否定してい
ました。
徴用以前を眺めてみても、一方で日本に渡りたい人が多いので規制しておきな
がら、一方では強制的に連れてくるなどということは、確かに常識で考えても
おかしなことです。
ーーもしも私が絶対的な為政者だったなら、最初から強制連行すれば済むこと
で、規制などという手間も費用もかかるようなことはしないでしょう・・・。
併合後内地に渡ってきた朝鮮人を、戦後の内務省警保局の統計でみると、終戦
直後では約200万人が内地に住んでいたことが記録されています。その内訳
を見ると、1940年以降に内地に渡ってきた人(強制連行された人々?)は、
約100万人となっています。
この中には、契約や徴用によって渡ってきた人々が、約52万人(1940年
から45年)、その他軍人、軍属等約36万5千人が含まれておりますので、
約100万人が政府のルートで渡って来た、連れられて来たと考えられます。
ーーでは、残りの100万人はどのようにして内地に渡って来たのか?という
疑問につき当たります。
1940年以前に、「志願」で渡ってきた人々も多いのですが、出稼ぎで自主
的に渡ってきた人、ブローカー等を通して不法に渡ってきた人々も多くなけれ
ば、この残り100万人という数字の説明が出来ません。――今の在日の人々
が全て強制連行によるものだとするならば、強制連行とされる人数以上の人間
が存在しているというのは矛盾があります。
----北朝鮮などは、最近、800万人!が強制連行されたとしています。----
また、朝鮮においての「徴兵・徴用は昭和19年になってから」ということか
らも、自主的に内地に渡ってきた朝鮮人が圧倒的に多かったという計算のほう
が矛盾のない説明とはいえないでしょうか。
= この稿つづく =
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祖父の朝鮮・満州懐旧談録「朝鮮編:強制連行と帰国事業(1)」は、
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┃▼▽ 中国ひと口話 ▽▼ by けんさん
┃
☆ 言葉が人間を作る ――――――――――――――――― 2005/04/15
私自身10才で終戦を迎え、危うく大地の子になる環境だっただけに、中国か
らの帰国者の報道を見るたびに身につまされます。
そして、その人達をテレビで見て、外見は完全に中国人だなと思うのです。
中国人と日本人の外見上の違いを言え、と言われても私は上手く言えませんが
口で表現できない違いはハッキリあります。ーーそれは、育った環境。
永い間農業に従事する中で作られた体型、周囲の人間関係の中で作られた身の
こなし、もう一つ大きな要素は、中国語を喋るということではないかと思って
います。
言葉は、いうまでもなく音声で語られ、その限りにおいて体で演奏される一つ
の音楽です。中国語を語るのに相応しい楽器として体型が作られるのではない
かと思うのです。
だから私は逆に、中国語を喋るときは出来るだけ中国語らしく喋るように、身
のこなしから中国人を真似ます。それを私は自分で、「楽器を持ち替える」と
呼んでいます。
└―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
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┃▼▽ 読者の広場 ▽▼
┃
┌──────────「Aruiさん」男性@六十代@会社員@中国
深セン駆け足で見てきました。ーーHAJIMEさんからいろいろ教えて頂いたこと
を活用しながら、お陰さまで無事、深センを見、広州経由で先ほど天津に帰っ
てきました。
10日、深セン空港からご教示通りにバスに乗り、羅湖に着きましたが、あの
巨大な羅湖+深セン駅のどの辺りで降ろされたのか今でも判りません。翌日見
た駅の正面ではなかったことは間違いありません。
兎に角、目の前に来たタクシーに行き先を告げたら20元と言うので、荷物も
あるので--適正価格が判らないこともあり--OKと乗り込み、ホテルに向かい
ました。考えたらバスが20元で..タクシーも同額??でした。
一休みしてから、東門までタクシーで行き、ヒルトンのほうへ行くように連れ
の中国人が告げましたが、運転手から、ダメだここで降りてくれと言われて、
降りて歩きました。そしたら西武でしょうか、ヒルトンの前のビルを反日デモ
が取り囲んでおり、その内側、つまりビルの直前は警官隊が取り囲んでデモ隊
とお見合いをしていました。
デモは、何かを叫んでいることもなく、静かに取り囲んでいたので、私はデモ
隊の後ろから様子を見ていました。
ヒルトンの5Fでしたか..回転レストランから深センを一望しながら、ビュッ
フェで昼飯を済ませました。2人で400元もしたのでビックリ。それから東
門の賑やかな所を歩いて見て回りました。(スリに注意しながら)
そして、タクシーで蛇口へ行きました。何故か?もう何十年も前に、私の海外
営業で最初に中国に商品を出したのが蛇口だった、ただそれだけの理由です。
南海ホテルを抜けて海を見ました。香港へのフェリー乗り場を見ました。
それから「Mission Hills CC」に行きました。
180 Holesの世界最大のゴルフ場っていうのに惹かれたのと、郊外も見れる
だろうとの思惑です。たしかにどでかいですね。リゾートハウスもアパートも
ゴルフ場の中で分譲販売されてるんですね。
4月15−17日、「VISA Dynasty Cup,Asia vs Japan」というプロのゲーム
が大々的に宣伝されており、丸山の顔がアップで描かれていました。
街に戻り、羅湖商業城の中のショップを見て5階のレストランでゆっくり食事
をして、9時半にホテルに帰り、どこへも出ないで寝ました。翌朝は、大劇院
から地下鉄で2元で羅湖まで行きました。
羅湖商業城のバスセンターから広州開発区までバスに乗りましたが、宝安を出
たあたりから、HAJIMEさんがいつも言われる、経済特区とは全く違った開発区
の様子を、バスの窓からですが垣間見ることが出来たと思います。
ーー肩を寄せ合うように建っている無数の工場群、あれですよね?
以上報告します。
└──────────
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┃▼▽ みつけよう面白・有益メルマガ ▽▼
┃
┌─────────── (^O^)
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│ ○●○ こんな時いくらかかるの? ○●○
│
│
│全ての物事にはお金がかかります。でもこんな時、いくらかかるんだろう?
│ということも多いですよね。そこで「わかりにくい値段」の中から楽しい話
│を集めてみました。一緒に値段の不思議を見てみませんか。
│
│
└→ この続きはこちらで → http://melten.com/osusume/?m=20701&u=6254
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┃▼▽ あとがき ▽▼
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┌──────────「半日半華人さん」
13日の情報では…
ーー16日(土曜日)、上海でも反日デモが行われそうです。
集合場所は人民広場(PM1:00)で、〜→日本領事館へ向かうコース。当日
は安全の為、コースにあたる地区への立ち入りは控えたほうがよさそうです。
(日本領事館付近には多数の邦人在住ゆえ心配です) ←私も…
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
14日、領事館から16日デモのメールが届きました。
市政府への申請がない非公式なモノらしいので確率は半分。
でも、危険の可能性があるので出歩かないように注意されています。
OJIN さんは絶対に上海へ来ないように!あっ?大丈夫かな?
〜〜私以上に中国語が喋れない中国人だからね。(安心・安心)
└──────────
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┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」
南通では、
13日朝、某日本語学校、登校した学生の目に映ったのは、学校の塀に張られ
た、今回の反日運動定型スローガンの書かれた広げた新聞紙程の大きさの紙。
ーーということがありました。
OJIN の周りでは、
公安局外事科から電話があり、
「何もないですか?知らない人が訪ねてきてもドアは絶対に開けないように」
ーーと注意されました。
しかし、
今、ワザワザこんな反日を煽って..人民の目を逸らさなきゃいけないマズイ事
とは何なんだ??ーーーーいったい、どこで、何が起こっているのだ〜〜??
└──────────
・
・
ではまた、ホントに愉快な月曜日号!で、お会いいたしましょう!(^o^)丿

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