| Mail-Magazine Back Number |
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┃ ☆ 金 曜 版 ☆ ≪ WEB 熱線 第535号 ≫2005/03/25_Fri ++++ ☆
┃ │ (*^−^*) │ ├──────────────────┤ +☆
┃ ☆ WEB 熱線 ☆ ―― アジアの街角から:亜洲街巷信息 ―― ++++ ☆
┃ └─────┘ └──────────────────┘ + ☆
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┌―――――――――――☆☆ 今号の目次 ☆☆―――――――――――┐
│
│・ごあいさつ ------ 新しい読者の皆様、ようこそ!! (^o^)丿
│
│・祖父の懐旧談録 -- 朝鮮編(4) --------------------- by hideおじさん
│
│・マレーシアナウ -- 地場小売業との共存を模索するカルフール
│ └------------------------------ by 坪内隆彦さん
│
│・読者の広場 ------ hideおじさん。
│
│・あとがき -------- 中国の電池。
│
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◇―――――― 新しい読者の皆様、ようこそ!! (^o^)丿 ――――――◇
│
│1.週3回・月水金のお届けですが、月→水→金 という流れではなく、
│ 「月→月」「水→水」「金→金」というサイクルになっています。
│
│2.タイトルは同じですが、月曜日号・水曜日号・金曜日号は、それぞれ
│ 別々のマガジン、と理解してもらったほうが分かり易いと思います。
│ 更に頻繁不定期で「アジアビジネスの現場から」号が配信されます。
│
│3.ライター兼編集発行の私OJINと数人のライターさんで執筆しています。
│ ___________________
│4.バックナンバーは → http://chinachips.fc2web.com/aaa.html
│ 「アジアの街角から題字の右横」→「バックナンバー書庫」
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┃▼▽ 祖父の朝鮮・満州懐旧談録 ▽▼ by hideおじさん
┃
☆ 祖父の懐旧談録:朝鮮編(4) ―――――――――――― 2005/03/25
―― 話が前後しますが、
戦争中期まで、朝鮮では、朝鮮人は「普通学校」、日本人は「尋常小学校」と
区別されていました。日本人児童は基本的に内地と同じ教科書を使い、朝鮮人
は総督府が作った教科書を使っていたそうです。日本語能力に差があった訳で
すから、最初から一緒の学校で教えることが無理だったこともあります。
普通学校で使われる教科書は、朝鮮人が違和感を持たないよう、挿絵を朝鮮風
にしたり、歴史では朝鮮史や修身(道徳)の教科書で、有名な朝鮮人を取り上げ
たりと、児童が親しみを覚えるように気を使ったそうです。
また銘記されるべき点は、総督府よりの教育方針として「その土地土地の生活
習慣、文化を重んじ、それに沿った指導を行なうこと」と決められていたそう
です。ーー決して「日本」を押し付けるなということです。
京城神社の宮司は朝鮮人だったそうですし、そこには、日本の天照大神と明治
天皇と、そして朝鮮の神様も祭られていたとのことでした。事実、朝鮮のお祭
りも昔と同様に行なわれていましたから、朝鮮の文化を踏みにじった覚えはな
いと話していました。
集団参拝ということが強制ととられたのかもしれないが、日本人の子供だって
好きで行っていたわけではないだろうし、キリスト教の子は神社の前で待って
いたそうですから「強制」というのはおかしな話です。
当時の朝鮮総督府の基本的な考えは、日本政府の思惑とは違って、あくまでも
「朝鮮の自主独立」寄りだった点でしょう。総督府と日本政府とは、事ある毎
に対立することも多く、中には「お前は朝鮮人になったのか!」と怒鳴られた
人もいたそうです。
日韓併合とはいいながら、日本は日本(内地は内地)、朝鮮は朝鮮(半島は半島)
という意識が普通であり、「同じ日本」という意識とは少し違っていたようで
す。同じく日本人が統治していながら、日本内地と微妙に異なった意識の相違
が、戦後の日本に対する態度に影響したのかもしれません。
祖父らのような考え方は、当時の朝鮮においても少数派だったかもしれません
が、こと教育現場においては「日本と同じ」とは考えていなかったようです。
教育が進めば当然民族意識というものも高まるのが当然で、そのアイデンティ
ティーの高揚を、教育の成果と真摯に受けとめる教育現場と、「朝鮮人は朝鮮
人」と捉えていた日本政府とのズレが、後に大きな問題へと変わっていったの
かも・・・。
―― その頃、朝鮮において問題になってきたのは世代間のズレです。
併合後20年30年と経ってくると、子供や青年は問題なく日本語を理解出来
るようになってきましたが、その父母、祖父母は日本語が不得手であり、日常
は朝鮮語が主体である家庭でも、子供の話す言葉があまり分らないといった世
代間ギャップが生まれてきたそうです。
また、同じく子供といっても、初等教育しか受けられない家庭も多く(これは
日本内地でも同様でしたが)まだ日本語が上手ではない子供もいたそうです。
朝鮮人の子供の中でも、日本語ができる者は不得手な子供に対して優越意識を
持ちだしてきたーーというマイナス面も現れてきていたそうです。
―― これは私の想像ですが、
戦争激化と共に皇民化政策が推進されてきましたが、日本語一辺倒になったの
は、これら教育での問題も何らかの影響があったのかもしれません。日本であ
りながら日本語が不得手な人がいるということは、戦争遂行上問題が多いとい
う面もあったのではないでしょうか。
一方、増加する人口と労働賃金格差は厳然として存在しており、内鮮一体とは
いいながら、「一体」ではあっても「一緒」ではないという相反する現実は、
朝鮮人の中に、ある種の「オリ」として積み重なっていったのではないかと考
えられます。また、人口増加に伴う労働人口の増加は、そのはけ口を日本内地
に求めるようになり、大量の日本への人口流出現象が現れました。
しかし、先にお話ししたように「日本語が不得手」な人が就業できる職業とい
うのは限られ、当然人々が敬遠するような仕事に従事するほうへと流れるのが
自然と考えられます。内地人は「安価な労働力」としか見ていなかったとすれ
ば、過酷な労働条件・賃金格差・差別意識等々、日本人でありながら日本人と
「一緒」ではないんだという複雑な意識が、戦後の韓国人の在りかたに影を落
としたのかもしれません。
一方、そうではなかったという意見もあります。
確かに朝鮮総督府の通達として「労働条件・給与等、内地人と半島人の差別を
してはいけない」となっていましたし、手に技術を持っている人は内地人以上
の給料を貰っていた人も多かったそうです。
過酷な労働条件は内地人とて同じで、最終的に内地人は戦争にとられてしまっ
たので、朝鮮人が労働の主役となったので、朝鮮人だけ苦労があったと間違っ
た理解をされてしまったのではないかという意見もあります。
ただ、内地で働く為には定められた一定の条件を満たしておらなければならず
それを満たさない者は内地に行けなかったといいます。が、それでも日本への
渡航熱は冷めず、不法に渡ってくる半島人は非常に多かったそうですが、そう
した者たちがいろいろ苦労したであろうことは想像に難くありません。
―― ここでちょっと横道に逸れますが、
祖父が面白いことを言っておりました。「内鮮一体」「八紘一宇」など、今で
はよく耳にする言葉ですが、祖父が朝鮮にいた頃には聞かなかった言葉だった
というのです。ーー勿論、言葉自体は知っていたし、内鮮一体という言葉がよ
く使われていたことも知っています。
それより「一視同仁」という言葉のほうが身近だったと言っていました。
祖父の不勉強ということも考えられますが、祖父が朝鮮を去り満州にいた時代
になってから盛んに叫ばれた標語らしいのです。「お役人が、てめぇの都合に
合わせてもっともらしいことを言ったにすぎん」とは言ってましたが、戦前は
ずっとこうしたスローガンが叫ばれていたと思っていた私には驚きでした。
大東亜共栄圏という国策に従って、これらの標語も出てきたようです。祖父に
よると、昭和13年までは..確か教科書にもそんな記述はなかったはずだし、
教育方針にもそんな事は決められておらんかったと言っていました。
これが、本当なのか嘘なのか、私には分りませんが、ご存知の方がいらっしゃ
いましたらお教え頂きたいところです。
祖父によると、朝鮮にいるときには感じなかったけれど、内地に戻ると「朝鮮
人は」という侮蔑意識を感じたそうです。確かに、最初に祖父ら朝鮮に渡った
日本人には差別意識がなかったかというとそうではなく、時間の観念や衛生に
対する意識等々、全く日本人の観念とは違っていたので「不憫な人々」という
目で見ていたのは事実だそうです。
私も子供の頃「朝鮮人は不潔だ」とか、「悪いことをする人」という意識があ
りました。ーー戦前の、日本内地での朝鮮人を見る目はもっと過酷だったのか
もしれません。
私の想像で申し訳ありませんが、そういった意識を、少なくとも私は持ってい
たこと、また祖父が感じていたことは事実であり、反省すべき点であると思っ
ています。ーー当時の内地にいた日本人も、朝鮮人に対し「優越意識がなかっ
た」「日本人と同じと思っていた」とは言いきれないのではないでしょうか。
――祖父は、このような矛盾を感じながらも、約20年に及ぶ朝鮮での生活を
離れ、生まれて間もない満州帝国へと赴任することとなったのです。
祖父は懐かしそうに朝鮮時代の事を語っておりましたが、当然綺麗事だけでは
なく、朝鮮人にとって明らかに不合理と思われる政策もあったと言っていまし
た。ーー同じ日本人であるとしながら、内地への渡航が制限されていたことな
どもその一例でしょう。
ただ、却って日本人のほうに不条理なことが多かったのでは、とも言っていま
した。ーー例えば、食料が配給制度になった頃、日本人へのお米の配給は年々
減ってきたのに、朝鮮人への配給量は終始変化がなかったそうで、余ったもの
がよく市場で売られていたそうです。
またこれは祖父の時代ではありませんが、併合後の10年間、朝鮮人は税金を
免除されていたということです。経済活動に伴う税金は別だということでした
が、日本(内地)人の中には「俺も朝鮮(半島)人だったら良かったのに」という
冗談も聞かれたと言っていましたから、私たちが聞く「朝鮮総督府時代」とい
うイメージとは大分異なります。
こんな、当時の世界情勢、世界の論理、歴史的事実を客観的に眺める時、私は
朝鮮人の「感情」は「感情」として理解できるものの、それでも「日本は良い
ことをした」と思っています。――韓国人は「日本のせいで発展が遅れた」と
言いますが、それは詭弁としか感じられません。
当時朝鮮に渡った日本人は、個人の利益の為だけに行動していた訳ではなく、
それこそ朝鮮を故郷とし、骨を埋めるつもりで働いていた人々も多かったとい
う事実を見逃してはならないと思います。
例えそれが「結局日本のためだろう」と言われても、彼らから感じられるもの
は「個」ではなく「公」『パブリシティー』なのですから。ーーなにより朝鮮
人自身の理解や協力がなければ、あれほどの近代化も為し得なかった筈です。
―― 祖父が話していた終戦時のひとつの逸話です。
朝鮮の王族の一人が広島の陸軍にいたそうです。しかし、あの原爆投下に遭い
不幸にもお亡くなりになられました。お付の武官は、自分がその時傍について
いられなかったのが痛恨の極みと自刃したそうです。
そして、その遺体を陸軍の飛行機に乗せ、ソウルの奥様の元まで届け、朝鮮総
督府は彼の葬儀を「総督府葬」として丁重に扱ったというのです。驚くことは
その葬儀が8月15日に行なわれたことであり、それも天皇の終戦の玉音放送
を聞いた後で執り行われたという事実です。
終戦の将にその時、ポツダム宣言受諾によって朝鮮が日本ではなくなったのに
も関らず、総督府役人は勿論、軍人、財界人を含めて、大々的に葬儀が執り行
われたということに驚かされます。
ーー統治時代の朝鮮の人々の協力に感謝し、最後の最後まで「礼」を尽くした
日本人を、いったい誰が責められるというのでしょうか。
= この稿つづく =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
↓
祖父の朝鮮・満州懐旧談録「朝鮮編(4)」は、
◇ このとおりだったのだろう ---------------------------- 54人
(64%)
◇ こうじゃなかったのでは? ---------------------------- 4人 ( 5%)
◇ どちらともいえない ---------------------------------- 1人 ( 1%)
◇ 知らなかった。そうだったのか〜 ---------------------- 25人 (30%)
┌─┬───────────────────────────────┘
│●│ コメントボードに頂きました感想。
└─┘
┌──────────「Gさん」
ーー非常にきめこまかい、貴重な証言だと思います。
「神は細部に宿りたもう」とはまさにこのことでありましょう。実に些細な、
日常の諸事を逐一記録してこそ、歴史の真実の解明に繋がるのだと思います。
頭が下がります。
なんらかのかたちで、もっと多くの人々に知っていただく手段はないでしょう
か?
教育改革に対する両班の抵抗と根強い階級差別、姓をもたぬ下層階級の存在、
文盲率の異常な高さ、我が国主導の訓民正音普及と教育の普及、等々。近代史
に興味ある者のあいだでは、すでに知られたことでしょうが、やはり肉声の力
は単なる知識を遥かに凌駕するものと思います。
確かに、明治生まれの先人方の「偏屈」さ、潔さ、懐の深さには、感服するも
のではありますが、相手は我が日本人の心根を共有しない方々です。
細かな事実を地道に積み重ね、雑音をものともせず、とにかく眼前に突きつけ
る以外、術は無いのだろうと思います。
今後も心より楽しみにしております。
両親ともに外地出身の一市井人より
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
一市井人さま、コメントありがとうございました。
併合時代の朝鮮において教育改革に取り組んだ祖父ら多くの人たちの努力は、
あまり記録に残っていません。祖父が、何かしらの形で記録を残しておいてく
れたらと残念でなりませんが、形では残っていなくとも、子として、孫として
語り継ぐべきものはこれからも大切にしたいと思っています。
祖父以外にも、損得無しに朝鮮を愛し努力した人たちも多いはずです。また、
日本人と共に心血を注いだ朝鮮人も多いと思います。そのような人たちを葬り
去ることが韓国の将来の為になるとは思えません。
人間社会において、全てが「善」ということがありえないよに、全てが「悪」
ということもありえないと思います。併合時代においても必ず「善」と「悪」
があったはずです。
一方だけを見て全てを判断することが、なんのプラスにもならないことは自明
の理です。それが歴史に学ぶということではないでしょうか。――しかし今の
韓国の頑迷さをみると、併合当時は相当苦労しただろうことと容易に想像出来
ます。
└──────────
┌──────────「ミカの赤い服さん」
hideおじさん、こんにちは。「このとおりだったのだろう」に投票しました。
◆こんな話を小室直樹さんの本で読んだ記憶があります。
「大東亜戦争前に、日本の海外領の中で経営が黒字になったのは台湾だけだっ
た。もしも、朝鮮半島が日本と合邦されたままだったら、日本の国が破産して
いただろう。」――今回の記事を拝見して、なるほどと納得しました。
◆李氏朝鮮は清朝の朝貢国だったので、支配階層が使う公用語は漢語で漢字を
使ったというのは納得できます。でも、庶民が使っていた朝鮮語は方言ばかり
で標準語がなく、ハングル文字も普及していなかったとは驚きました。
教育関係者はさぞご苦労なさったでしょう。
◆戦争中に日本人の行ったことについて、悪いことは悪く、正しいことは正し
く、中国大陸や朝鮮半島も評価して欲しいです。そうでないと、私たち日本人
のご先祖が浮かばれません。
◆3月18日の夜のニュースで「日本・島根県の1都市が『竹島の日』を制定
したことに対抗して、韓国・馬山市が『対馬の日』を制定した」そうです。
韓国の学生が対馬に上陸して、韓国の国花のムクゲを植えていると聞いたこと
はあります。この植樹は、まさか今回の伏線だったのでしょうか?
◆元寇のときに、朝鮮半島の人たちも兵士として、壱岐・対馬を蹂躙したこと
を忘れたのでしょうか?また、昔から現在まで、対馬には多数の日本人が住ん
でいることを、韓国の人は知らないのか?そう思うと、本当にあきれました。
韓国の人たちは、本当に何を考えているのでしょう。
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
ミカの赤い服さん、明治の日本も同じように言葉の統一化を図りました。東京
の言葉を標準語として一般に広めたわけですけれど、同じようなことを朝鮮で
も行ったということです。
何故このようなことを行ったかというと、共用語を定めることによって国内で
の意思疎通を円滑に行うことが主たる目的であったそうです。確かに方言ばか
りでは教育の場においても大変不便なことであったでしょう。国の近代化にお
いて、体系的に言葉を統一することは非常に重要であったのです。
中国においても「普通語」とか「漢語」というように、共用語を定めて統一を
計ったというのも一つの例でしょう。
ただ、当時、ハングル文字が全く普及していなかったということではなく、限
定的な使われ方しかされてなかったそうです。
17世紀には、ハングル文字による小説もあったということですが、一般国民
への浸透度合いはまだまだであり、総督府がハングルを公用文字とすることで
広まっていきました。このハングル文字の普及の一環として「朝鮮日報」とい
う新聞の発刊もありました。(現在の朝鮮日報の元になったものですが、現在
韓国では別物であるという立場です)
祖父らが、最初何で朝鮮語を学んだのかというと、「フランス人やイギリス人
が作った字典だった」言っておりまた。祖父の学生時代には、朝鮮に体系だっ
た「辞書」が無く、結局一番頼りになったのは、朝鮮総督府が作った対訳付の
「朝鮮字典」というものだったそうです。
その後、朝鮮語の研究が進み、総督府が進める形で、朝鮮人博士を著者とした
「朝鮮語辞典」に連なる訳です。
祖父がいたところは、学務局というところで教育全般は勿論、朝鮮史の研究、
史跡・歴史的書物の発掘・整理等々、当時朝鮮では顧みられていなかった部分
にも手を加えたようです。
一方、殖産局というところに勤めていた祖父の友人は、総督府が作った水産研
究所で、朝鮮においての魚分布、朝鮮海域の科学的分析、近代漁法の推進等々
に努力したそうです。
これらも、今では「搾取する為の手段」とひと言で片づけられているのは重ね
重ね残念です。
竹島問題については個人的にひと言もふた言もあるのでが、ここはグッと我慢
して別な見方をすると、――韓国では長年、「反日」と「反共」というのが国
のよりどころでしが、冷戦終了後、北朝鮮の情報も解放されてきて「親北」と
いう空気とともに「反共」が薄れてくるという現象が出てきています。
ーー結局「反日」だけがことさら強調される結果となったわけです。
一方、韓国国内を見ると、IMF管理下において、リストラ、あらゆる合理化
が進められ、構造調整計画が進められました。これが韓国国民に多大な負担を
強いた訳です。――市場経済体制への不信感というのが「親北」という雰囲気
を醸し出したのではないかと思います。
さらに、廬武鉉大統領のような、左翼民族主義政権の誕生とともに「反日」に
歯止めがきかなくなったということも言えるでしょう。 表面上の韓国経済は
良好のように見えますが、新たな破綻状況が見え隠れしています。
就職難、給与格差、日本では想像出来ないほどの「勝ち組」「負け組」の二極
化への「鬱憤」のはけ口として「反日」があり「竹島」が格好の標的になった
と思います。――「反日」とすれば何でも許されるというのは、もはや正常な
状態ではないでしょう。まして「対馬」については、反論する気も起こらない
ぐらいバカバカしいですね。
最後に、韓国の友人の顔を立ててひと言、
ーー韓国内にも「冷静」な人はたくさんいます。
└──────────
┌──────────「本間純さん」
つい先日まで従事していたラオスでの教育事情は、ここに書かれている朝鮮の
当時と類似していると思い読ませていただきました。
しかし不幸ながら、このような「正しい歴史」には聞く耳を持たない周辺国に
日本は囲まれています。よく比較されるドイツは、民主国家に囲まれているわ
けですが、つまるところは、彼らの民主化が進展しなければ、相互理解などは
一切期待できない。
我等の祖先のためにも、島根県のように発言すべきは発言し、後は静観、何も
期待はしない、といったスタンスしかとれないように思います。
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
本間さん ラオスでのお仕事ご苦労さまでした。
昔の朝鮮においても、本間さんのような外国の方が苦労して教育に立ち向かっ
たのだと思います。子供たちに、世の中にはいろいろな考えがあるということ
をちゃんと教えること、言いたいことはちゃんと言うことこそ、本当の国際化
ではないでしょうか。
ーー日本の教育にも欠けていると思いますが、アジアではまだまだ普通のこと
が認識出来ない国が多いのは残念です。
今回の竹島問題は、どうも韓国与党の支持率低下における危機感からすれば、
これ幸いというところではないでしょうか。日本としは、さらっと受け流すぐ
らいで良いのではないかと思いす。
島根の方には大変失礼ですが、韓国にしてみれば、日本のひとつの地方自治体
が言ったことより、日本外務省のホームページに「竹島は日本の領土」と前々
から載っていることのほうが頭に来ると思うのに、こちらは何の批判も無いと
いうのは不思議です。どこか韓国の物事の見方はズレているように思えます。
└──────────
┌──────────「あ〜さん」
私の祖父や祖母は、少なくとも強制連行で日本に来たのではなく、自分の意思
で来たと申していました。今では過去の経緯を聞く事も出来ませんが、イメー
ジ的には仰られる事に近いと思います。
よく、日韓、日中関係を兄弟に例える事がありますが、今の時点もしくは近代
においては、明らかに日本が中国や韓国、朝鮮の兄であったと私も思っていま
す。
しかし、現在の状況は弟達の勢いが凄く、領土や内政に関してまで口出しをさ
れている状況ですが、ここらで兄の威厳を見せても良いのではと考えてしまい
ますね。ーーそれとも年老いた父親になってしまったのでしょうか?
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
あ〜さん 度々コメント頂きありがとうございます。
来日された方々、それぞれ理由はあったと思います。家族の幸せを思えばこそ
故郷を離れたのではないでしょうか。昔、中国・朝鮮半島を通じて、日本はた
くさんのことを学びました。
私が韓国や中国に行った時に感じるある種の「懐かしさ」というのは、ある時
期、日本・韓国・中国とも共通する「心」を持っていたからこそ感じるもので
あり、同じ文化を共有していた歴史があるからではないかと思っています。
歴史に学ぶということは、マイナス面だけではなく、プラス面を見てこそ始ま
るものではないでしょうか。今の韓国・中国に対しても、それを期待したいで
す。
└──────────
┌──────────「lonsome carboyさん」
最近の、高麗大学名誉教授の辞任や、ソウル大学教授の謝罪や、金ヨンソプ氏
の国外追放やらを見るまでもなく、韓国は歴史を学問として捉えたり、自由な
見解をすることが憚られている。
歴史は学問として事実の探求にあるべきなのに、韓国は自分達に都合の良い事
不都合な事の選別に勤しみ、感情論に終始する。上記のような学者が論理的な
思考によって発言・執筆すればたちまち糾弾される始末。
日本の教科書に注文をつける前に、自分達こそが歴史を「歪曲・改竄」してい
るということを認識しなければならない。
辛い事実だが、敢えて正視し国民に本当の教育を施さなければいけない。
世界に出て行く韓国の若者が一様に直面するのは、自国の「国定教科書」で教
えられた歴史が世界中のそれとの間に大きな差異があることを知り驚愕すると
聞く。
韓国政府がその是正を行わないのであれば、未来永劫日韓の友好関係を築けな
いばかりではなく、将来ある韓国の若者たちをも傷つけ、恥をかかせ続けるこ
とになる。
└──────────
▼
┌──────────「hideおじさんから」
lonsome carboyさん コメントありがとうございまた。
ちょっと半歩退いて見ると、高麗大学の先生やソウル大学の先生が話している
ことは全くまともなのに、もう感情が先に立ってしまって周りが見えなくなっ
ているのでしょう。
私は、日韓併合で日本が行ったことについて全て正当化しようとも思わないで
すし、まして彼らに感謝して欲しいとも思っておりません。せめて、いろんな
意見を聞く耳を持って欲しいと思っています。
私がアメリカ駐在時代、ある学校に通っていたのですが、東アジア経済の授業
で先生が「日本の植民地経営は、欧米とは異なっていた」というようなことを
言った途端、クラスの韓国人が猛然と先生を非難し、涙ながらに抗議していた
ことがありました。
先生はあっけにとられて「何を言ってるのだろう」という顔でその人を見てい
ましたが、最後まで訂正はしませんでした。
結局彼は「授業をボイコットする」と言って出て行ってしまいますが、クラス
のみんなは「理解不能」と言ってました。
それ以来彼は、学校でも孤立してしまい、何とも複雑な思いをしたことがあり
ます。――彼も、現代韓国教育の犠牲者かもしれまん。
└―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
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┃▼▽ マレーシアナウ(現在) ▽▼ by 坪内隆彦さん
┃
☆ 地場小売業との共存を模索するカルフール ―――――― 2005/03/25
フランスの流通最大手カルフールは、最近日本からの撤退を余儀なくされたも
のの、世界各地でアメリカのウォルマートと激しい競争を続けている。同社は
アジア戦略では一歩先んじ、早くも1989年に台北に進出していた。
マレーシアに進出したのはその5年後の1994年。以来、1995年に中国
1996年にタイ、韓国、香港、1997年にシンガポールと、次々と進出し
てきた。
カルフールの創業は1959年で、世界の大手小売業の中では比較的若い企業
である。どちらかというと、ウォルマートが既存の店舗の買収によって拡大し
てきたのと対照的に、カルフールは最初から100%子会社を設立し、自前の
店舗を地道に建設する方法をとってきた。
同社の店舗の中心は、ハイパーマーケットと呼ばれる、セルフサービスの大型
ディスカウント店である。
マレーシアでは、イオンをはじめとする日系小売業が1980年代から進出し
市場を形成してきた。こうした先行小売店に対抗する形で、カルフールは19
94年9月に1号店を、クアラルンプール市郊外のスバン・ジャヤにオープン
した。
1995年10月、マレーシア政府は卸・小売企業に対する外資の株式保有に
ついてのガイドラインを出し、同年11月から外資による新規投資、既存店舗
の拡大、移転には卸売り・小売委員会の承認が必要となった。また、参入する
外資は法人化することが義務づけられ、出資比率は30%以下に制限された。
ただし、政府は30%を超過した場合の扱いについて柔軟な対応を示した。
カルフールの持ち株比率は当初70%だったが、近い将来、30%を超過する
株式を地元の投資家に譲渡するという条件付きで認められていた。
△△『日本食糧新聞』2003年6月30日付
いずれにせよ、カルフールは順調に出店を続けた。1996年にジョホールバ
ルに2号店を開設、1999年11月下旬には、首都圏クラン・バレー地区の
大型ショッピングセンター「メガモール」のテナントとして6つ目の店を出し
た。
この大型店に支えられ、カルフールの売上高は、2000年末に7億5000
万リンギに達し、8%近いシェアを獲得した。
だが、カルフールをはじめとするハイパーマーケットへの警戒感も強まった。
2002年4月3日、ムヒディン・ヤシン国内取引消費者行政相は、外資系流
通業者の新たな出店を規制する方針を打ち出した。マレー系の小売業を保護す
ることは、与党にとって重要な課題だからである。
ところが、翌5月23日、アブドラ副首相は、カルフールなどのハイパーマー
ケットと地場の小売業の共存を可能にする新たな政策を打ち出したのである。
ハイパーマーケットが、その進出によって影響を受ける地場小売業者を自らの
流通ネットワークに組み込み、ハイパーマーケット向けと同じ卸売価格で商品
を供給するという方策と、自社のブランドで販売している地場業者をハイパー
マーケット内のテナントとして引き入れ、その商品をハイパーマーケット内で
販売させるという、2つの方策が提案された。
ハイパーマーケットのノウハウとブランドを利用して、国産品の販売促進を図
るという考えが政府部内に浮上したとされている。
△△『Bernama Daily Malaysian News』2002年5月23日
△△『NNA』2002年5月28日付
つまり、ハイパーマーケット規制から利用への転換である。2003年8月1
日に示されたヤシン大臣の姿勢にもそれは示されている。ヤシン大臣は、ハイ
パーマーケットと、地元中小企業の間の相互利益の必要性を強調し、ハイパー
マーケットが自店舗に置くマレーシア産品の数を増やすよう求めたのである。
マレーシアは、国内産業の維持を目的とした政策を維持しつつも、グローバル
化に備えた国内産業の競争力拡大を志向している。つまり、行き過ぎた保護は
自立を妨げるという考え方を強めている。特に小売分野では、海外のノウハウ
を導入することが重要だという考えが強まっているのではなかろうか。
カルフールは、共存共栄を求めるマレーシア政府に歩調をあわせつつ、その後
も積極的に出店する姿勢を示している。2005年には、クアラルンプール近
郊のクポンに9つ目の店舗をオープンするほか、2007年までにマラッカな
どへ出店することも計画している。
マレーシアにおけるカルフールの成功は、日本からの撤退を決めたいま、同社
のアジア戦略にとってさらに重要な意味を持ちつつある。
└―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
┌──────────
│坪内隆彦さんのプロフィール:
│
│ジャーナリスト。拓殖大学日本文化研究所附属近現代研究センター主任研究
│員兼創立百年史編纂室編纂委員・(社)日本マレーシア協会理事・マハティー
│ル研究会主宰。
│
│1965年生まれ。慶応義塾大学法学部卒業後、日本経済新聞社に入社、貿易記
│者クラブ(日本貿易振興会記者クラブ)担当記者として通商問題などの取材に
│あたる。1989年退社後、フリーランスで取材・執筆活動に入る。
│
│1991年に「国連における大国協調の光と影」で佐藤栄作賞(国際連合大学協
│賛財団懸賞論文優秀賞)を授賞。
│1994年に『アジア復権の希望マハティール』を、1997年に『キリスト教原理
│主義のアメリカ』を、1998年に『岡倉天心の思想探訪』を上梓。
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│『日馬プレス』で「マハティール十番勝負」を、
│『月刊マレーシア』で「明日のアジア望見」をそれぞれ連載中。
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┌──────────「hideおじさん:MSN掲示板に」
OJIN さん 返信が無いようなので僭越ながらe-bankについてご説明したいと
思います。e-bankはインターネット決済用銀行と言ってもよく、無店舗型銀行
です。 一般の銀行のようにお店を構えていない新しいタイプの銀行です。
振込手数料がタダだったり、他銀行・郵便局への振り込みも安いという、便利
な銀行システムです。 キャッシュカードもありますが、自前のATMは無く
提携の他銀行・郵便局、コンビニのATMを利用することになります。
日本では、ヤフーオークションや楽天など、インターネットでの個人取引が多
くなり、手数料が安いe-bankが重宝されるようになってきています。
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┌──────────「hideおじさん:MSN掲示板に」
――「大発見!?中国にも“鵜飼”漁法があった!!」に:
OJIN さん 思い出しました!祖父も満州のどこかで「鵜飼いを見た」と言っ
ておりました。 詳しいことは思い出せませんが、「吉林」とか言っていたよ
うに思います。「日本だけのものじゃなかったのだなぁ」と印象深かったそう
です。
それと、満州にも温泉があって「泥風呂が面白かった」という話しもしていま
した。--中国に温泉があるなどとは思ってもみませんでしたが、今でも温泉に
入る風習は残っているのでしょうかねぇ。
祖父が最終的に居たところはハルピンですが、なんでもロシアの花売りが可愛
いかったそうです。--ニヤニヤして祖母に睨まれてましたが、私も「鵜飼い」
よりも「花売り」のほうに興味があります。(血は争えない?)
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┌──────――──「(^^) OJIN です(^^)」
hideおじさん、お答えありがとうございました!
ーーそうなんですか..吉林省(?)にも鵜飼がある(あった?)らしいんですね。
ということは、
まだ他の地方にも存在する可能性がありますね?!
まあ、花売り姑娘(小娘?)はいまでもイッパイおりますけど、なんか小狎れて
いる感じで..あんまり可愛くはないですね〜〜。
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┃▼▽ あとがき ▽▼
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以前、デジカメを買おうと市内のデパートや電気店めぐりをしました。
しかし何処も品揃えが少なく、気に入ったものは見つかりませんでした。
ーー仕方がない..日本で買うか、、朋友に頼んで買ってきてもらいました。
日本で買ったときに電池を入れてもらってありましたので、そのままバチバチ
〜〜うん、ヤッパリ日本の製品は性能がいいわい。(^^)
と、
調子に乗ってパチパチ撮りまくっておりましたら..ある日電池が終ってしまい
ました。まあ電池はいつかは寿命がくるもの....。
日本式なら「単三」中国式でいうと「5号電池」
買って交換して、またパチパチパチ。ところが、
程もなく「バッテリーがありません。交換して下さい」という表示が出た!?
・
まだ使い始めて僅かだよ、、まったく!これだから中国製は信用ならん!
ブツブツ言いながらまた買って交換して、またパチパチパチ。--ところが、
程もなく「バッテリーがありません。交換して下さい」という表示が出る!?
ーーそんなことを何度か繰り返して、ある日、
ある貿易商と雑談、、彼が話の中で、
「いやー、以前にね、中国から電池を電源に使う雑貨品を日本に入れたときに
大失敗したことがあるんだよ。こちら(中国)で試した時は何ともなかったんだ
けど、いざ日本で販売したらクレームの嵐。‥‥なにが原因だったと思う?
日本製の電池を、その雑貨の電池ケースに入れると電池ケースの蓋がキチンと
閉められない、というんだよ。そんなバカなことがあるもんかと駆けつけてみ
たら..確かに蓋がチャント閉まらない..僅かに隙間が開いてしまう?!
電池はどう見ても同じものなのにどうして??ーーワケが分からなかったけど
中国産と日本産の電池を並べて暫く睨みつけていたら・・・あれ〜?この2つ
、、なんか微妙に大きさが違うんじゃないか?!らしいことに気が付いた、、
んで、正確に計ってみたところが..中国のほうが微妙に小さい....ということ
が分かった!!
それをどうやって解決したか?ーー電池ケースを日本サイズに合うように作り
直したよ・・・」
それを聞いていて思い浮かんだのは、スグに電池がありませんと表示されてし
まう OJIN の日本製デジタルカメラ、、――中国製の電池のほうが微妙に小さ
いということは、、日本製の機器に中国製の電池を入れた場合、、電池がなく
なったんじゃなくて、、接触不良で電池がないと表示されてしまうのか!?
ーー以来、
表示が出ると電池ケースの蓋を開け閉めして、ダマシダマシ使っています..。
・
・
ではまた、ホントに愉快な月曜日号!で、お会いいたしましょう!(^o^)丿

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