| Mail-Magazine Back Number |
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┃ ☆ 金 曜 版 ☆ ≪ WEB 熱線 第363号 ≫2004/02/06_Fri ++++ ☆
┃ │ (*^−^*) │ ├──────────────────┤ +☆
┃ ☆ WEB 熱線 ☆ ―― アジアの街角から ―― ++++ ☆
┃ └─────┘ └──────────────────┘ + ☆
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┌―――――――――――☆☆ 今号の目次 ☆☆―――――――――――┐
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│・ごあいさつ ------ 新しい読者の皆様、ようこそ!! (^o^)丿
│
│・満州青春録 ------ 懐かしの我が家 ------------------- by 松本進さん
│
│・おしらせ! ------ (=∵=)
│
│・満州回顧録続編 -- 自虐史観の枷を解く(8) ----------- by gosakuさん
│
│・読者の広場 ------ 生育@北海道、現在@サンフランシスコさん。
│ 半日半華人さんv(^^)v。
│
│・あとがき -------- おじいちゃんのテレビ。
│
└―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
◇―――――― 新しい読者の皆様、ようこそ!! (^o^)丿 ――――――◇
│
│1.週3回・月水金のお届けですが、月→水→金 という流れではなく、
│ 「月→月」「水→水」「金→金」というサイクルになっています。
│
│2.タイトルは同じですが、月曜日号・水曜日号・金曜日号は、それぞれ
│ 別々のマガジン、と理解してもらったほうが分かり易いと思います。
│ 更に頻繁不定期で「アジアビジネスの現場から」号が配信されます。
│
│3.ライター兼編集発行の私OJINと数人のライターさんで執筆しています。
│ ___________________
│4.バックナンバーは → http://chinachips.fc2web.com/aaa.html
│ 「アジアの街角から題字の右横」→「バックナンバー書庫」
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼▽ 満州青春録 ▽▼ by 松本進さん
┃
☆ 懐かしの我が家 ―――――――――――――――――― 2004/02/06
―― 高浜港に夕方六時頃に着いた。それから汽車に乗った。
車掌さんの声....電車の戸の閉まる音....全てが自分を歓迎してくれているよ
うだった。松山市駅に着くと旅館の客引きが「引き揚げてこられたのですね。
お泊りじゃったら食事の用意ができて、お風呂も沸いていますのでご案内しま
すが」と寄ってきたが断った。
今日は四月三日、私はこの日家に帰ることにこだわっていた。四年前の四月三
日、私は故郷を旅立ったのだ。できれば今日、家に帰りたかった。森松行きの
最終の汽車を待った。
汽車は空いていた。私の向かいの座席に六十歳ぐらいのおじいさんとおばあさ
んが座った。汽車が動き出して十分ぐらいすると二人が私に話かけてきた。
「お兄さん戦争から帰ったんですか?」
「はい、満州から帰ってきました」
「よう帰ったなあ、御苦労したでしょう。生きて帰ってよかった。ところで
お兄さんどちらの方ですか?」
「自分ですか?荏原の西野です」
「えっ?西野のどなたさんとこですか?」
「自分は松本です」
「ええ!松本才吉さんかな」
おじいさんとおばあさんの顔色が変わった。
「お兄さん、いつ頃行ったん?」
「今から四年前です。ここ三年ほど手紙も出せませんでした」
「ほうかな。家のことは何もわからんじゃろうな」
二人は顔を見合わせて何か言おうか、言わないかとためらっているように見え
た。少し間が空いて、今度は私が話かけた。
「おじいさんはどちらですか?」
「ワシかな。ワシは坂本よ」
「坂本ですか」
「そうですらい」
私達は夜の八時間過ぎに森松駅に着いた。とりとめのないことを話しながら、
西野まで歩いた。二人と別れた場所は、出征のとき仲田のおばさんが泣いてく
れたところであった。懐かしい場所ばかりだ。川や池、橋、土手、柿の木、松
の木、池の小さな水音までが懐かしい。
心の中で、それらのひとつひとつに「ただいま!」と声をかけた。
―― 明りのついた自分の家の前に立った。何も変わらないでここに在る。
小さく深呼吸を一つして、戸をガラガラと開けると「ただいま!」と言った。
玄関を入ると、上りがまちの前の火鉢のところにお年寄りと若い人とが座って
いた。お年寄りが奥に向かって「おばあさん!お人が来たぞえ」と大声で呼ん
だ。母は少し耳が遠い。お年寄りは父の従兄弟で、若い人は私が満州に行って
から結婚した姉の婿で、たまたま広島から来っていたのであった。
奥から母が出てくるのを待つ間そこに掛けてある柱時計を眺めた。懐かしかっ
た。襖がスッと開いた。薄暗いが、私は母だとすぐわかった。
母は両手をついて「どちら様でございましょう?」と言った。自分の想像には
なかった意外な母の反応に戸惑い、咄嗟には言葉がでてこなかった。何度この
時を想像したことか。驚きと喜びに迎えられるはずではなかったか。しかし母
は、まだ私だと気付かないようだ。
私が黙っているので、母はジッと私を見ると、ジワリと立ち上り奥へ引っ込ん
だ。その当時、ヨシ子姉さんの夫が戦死したので姉は実家に帰ってきていた。
その姉に母が奥で話すのが聞こえた。
「ヨシ子さん、変わったお人が来とるが、あんた出てや。この遅いのに誰やろ
うか」
「ほう、誰じゃろうな?」
と言いながら襖の開いているところに立ち、姉はジッと私を見た。
「進かいな?」尋ねるような、疑うような聞き方だった。
「はい!帰ってきました!」
「ええ!お母さん、お母さん、進じゃがな。進が戻んたんじゃがな!」
「すすむ?えっ!本当かい!あれが戻んたてて」
母が慌てて引き返してきた。火鉢のところにいた二人も驚いたように私の方を
見た。「進かえ?」やっとわかってもらえたようだ。四年も留守をしていたこ
とに改めて気付かされた。学生帽の子どもの私が、四年の月日を経て戦闘帽に
髭面だったから、母がすぐに気付かないのも無理ないかもしれない。
おまけにどうやら死んだと思い込んでいたらしいので尚更だ。火鉢のところに
いた二人も「よう戻んたのう。よかった、よかった」と言ってくれた。
母は抱きつくようにして「上がりや、上がりや!」と招き上げた。
そして「ヨシさん、早う電気回してや」と手元に持ってきた電灯で私の顔を照
らし、ジッと食い入るように見つめた。母は自分の息子、進であることをよう
やく確信して、やっとニッコリと嬉しそうに笑った。その時の笑った顔は顔は
いまでも忘れられない。
「中国やソ連の捕虜になっていて、興南から船に乗って佐世保に一週間前に着
いた。その時、手紙を出そうと思ったけど、今までも出せなかったんじゃか
ら`顔を見せていっぺんに喜んでもらおうと思って帰ってきた!」
「ほうかえ、手紙をくれりゃあよかったのに」
「お父さんは?寝とるんやろ?」
「お父さんけ......、お父さん、、死んだよ。おまえのことを言いながら死ん
だよ。お父さんの死んだ日に、おまえと満州で一緒だった玉井さんが来てく
れて、その人が帰られて十分もしないうちに息を引き取ったよ。玉井さんが
来てくれたとき『お父さん、進の友達よ。進の友達来てくれたんよ』と何度
も言うと、わかったみたいで嬉しそうにしとったよ」
母は辛そうにそう言った。父のことは今までにも死んでしまっているかもしれ
ないと覚悟はしていた。しかし父には一言「帰ったよ。心配掛けたね」と言い
たかった。
「あれほどおまえのことを近所中に自慢して歩いておったのに、もうちょっと
長生きしておればおまえに合えたのに......」
母の目は涙で光っていた。
「兄貴は?」
「今、芝居の練習に会堂へ行っている。もうすぐ帰るよ」
しばらくして帰ってきた兄と弟と、久しぶりに話をした。二人とも嬉しそうで
あった。弟に「おまえ大きくなったのう!」と言うと照れくさそうに笑った。
弟も兄と一緒に青年芝居の稽古をしていた。昔座っていた場所に座り、ご飯を
食べた。ここでの食事を何度夢に見たことか。
―― 次の日の朝、久しぶりの我が家で目が覚めた。
布団の中から天井を見る。杉天井の節の数をゆっこりと数えてみる。ジッと見
ていると、節が人の目や魚の目に見えてくる。「そうだ、そうだった。あの頃
のままだ。何も変わっていない」障子の飾りガラスの富士山と鳥の絵も、襖の
模様もそのままだ。
牛の鳴き声がする。私がいた頃の牛だろうか。鶏の鳴き声もする。少し遠いか
らよその鶏だろう。母が台所で炊事をしている音がする。ここが私の家だ!!
やっと帰ってきたんだ!!フツフツと喜びが沸いてきて自然と顔が綻んだ。
ゆっくりと起きると母が朝ご飯を勧めてくれた。飯台の前に座ると、昨夜見な
かった三、四歳の女の子が、目をこすりながら私の前に立った。とてもかわい
い子で「嬢、どこの子?」と聞くと「とし子、四歳」と答えた。ヨシ子姉の子
どもだ。
姉が出てきて「おいちゃんよ。こんにちは、おかえりなさいと言わんかね」と
言った。するとすぐに「こんにちは、おかえりなさい」とハッキリと挨拶をし
た。利発な子だと思い「こっちへおいで」と言うと、嬉しそうに私の膝に抱か
れた。
後からこの子の兄の文夫が起きてきた。襖のところから見ているだけ、恥しそ
うにしていた。姉は一人でこの子ども達を育てていかなくてはならないのだ。
―― 姉婿が知らせてくれてみんなが会いに来てくれた。
母は一生懸命ごちそうを作ってくれた。昨日汽車で一緒だった坂本村のおじい
さん、おばあさんは、私の遠縁に当たる人だった。父の死んだことを知らずに
やっと我が家に帰る私を不憫だと思い父のことを黙っていてくれたのだろう。
夕方、墓地に行った。もう辺りは薄暗くなりかけていた。一人で思い切り泣い
た。父の反対を押し切り、充分の別れもできなかった。
「どうしても行くのか......」そう言っていた父のことを思うと、申し訳なさ
でいっぱいだった。泣くだけ泣いて父と本当の別れをした。
┌─┬───────────────────────────────┘
│●│ お便りで頂きました感想。
└─┘
┏━━━━━━━━━━「坊主2さん」
―― 仏教徒として考えました。
日本にいよいよ帰れてよかったです。
連れ合いも小一で船に乗って帰ったのですが、どうも状況を詳しくわからない
です。その母も思い出したくないのか、大変だったとしか語ってくれません。
今は、忘れたというばかりです。
ところで、人間は生まれながらにして、生きたいと求める生命力を認めていま
す。赤ちゃんの乳を吸うことなど誰も教えないうちから行動しますから。それ
が生きていくための最低限の必要不可欠条件とみます。
どんな人でも食欲を否定されたら生きていけません。完全に食べるものがなく
なったら人間でも食べてしまうこともあります。「削られた岬・合田一道著」
に、実際食べて裁判になった事件が描かれています。
そんなわけで霊山和尚が自分もひもじい思いをしたのでしょう。明治22年か
ら昼弁当を持ってこれない子にオニギリをあげました。以来昭和2年に亡くな
るまで、托鉢をして給食しました。これがわが国の学校給食発祥の原動力にな
りました。食育とは生きていくためにほかの命をいただく事だと気付くことだ
と捉えています。
そんなわけで、帰りの船で三日間ほどは何をどのように飲食したのか、知りた
いものです。食べたら当然出るわけでそれは大丈夫だったんですね?
東北の川べりで育った私は、そこいらに平気でやってましたが、船では困った
ろうと思います。しかし、よくも無事に帰れてよかったですね。
時の政府の政策で、たくさんの善良な人々が亡くなり、たくさんの善良な人々
が人間のギリギリまで追い詰められるような生き方を強いられることは、2度
と繰り返してはならないと思います。
┗━━━━━━━━━━
┏━━━━━━━━━━「結草さん」男性@六十代@山形
満州青春録の愛読者です。
この人しか書けないこと、それがこれからの日本や世界を少しでもよくしよう
とするものたちに役に立つことならば記録に残すべきと考えます。
たとえ時の政府や権力者に都合が悪いことでも、いや悪ければ悪いことほど、
書き残すべきと思います。残留孤児になりそうだった人と今も暮らしているの
で外国で暮らすということの厳しさを平時ではないときにはどうなるか、知り
たいです。
これは過去の問題ではなく、今の問題でもありますね。
中国関係の方にはこんな話がたくさんあると思います。
それを拒否されないで掲載してくれることに感謝します。
┗━━━━━━━━━━
┏━━━━━━━━━━「さよこさん」女性@三十代@その他海外
松本さん、ついに日本に戻ってこられたのですね。
本当にお疲れ様でした。いつも楽しみに購読しておりました。
私も本が欲しかったのですが、ぐずぐずしているうちに売切れとは残念です。
┗━━━━━━━━━━
松本さんの自分史「佳き日を生きて」は、その後も希望される方が続き、残っ
ていた分は終了しましたという連絡を頂きました。
尚希望される方がおられるようであれば増刷を考えますが、今度は本の原価と
送料だけはお願いしたいということでした。
└―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
── みんなで作ろう!日中友好・遊学の大っきな輪ッ!!──
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼▽ 教えて!中国 ▽▼
┃
┏━━━━━━━━━「760さん」男性@三十代@自営業@中国
はじめまして。
いつぞや、bluetooth搭載の中国の携帯電話を使って、PDAやPCにて
インターネット接続を試みようとされている方がいらっしゃいましたが、
その後どうなったでしょうか。
私は今まさにそれを試みている段階なのですが、まだ成功しておりません。
bluetoothをonにするとPDAは携帯電話を認識するのですが、
「サービスがありません」というようなメッセージが出て、
「別のデバイスを検索してください」となります。
どなたか成功されている方いらっしゃいませんか?
┏━━━━━━━━━「あゆみさん」女性@五十代@主婦@岐阜
いつも楽しく読ませてもらっています。
南通で、アパートで時間が有り余っているのでパソコンを持っていきたいので
すが、初心者でもわかるように教えてください。
なお、これから買うとすればメーカーはどうですか?
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼▽ 満州回顧録続編 ▽▼ by gosakuさん
┃
☆ 自虐史観の枷を解く(8) ――――――――――――――― 2004/02/06
―――― 私見:東京裁判の検証(2)
東京裁判は、昭和23年11月3日に判決が下され、東条、広田ら7名が絞首
刑、木戸ら17名が終身禁固刑とされました。が、注目すべきは、それを遡る
こと3年前の1945年12月7日(新聞の日付は9日)、フィリピンのマニラ
軍事法廷で下された最初の裁判の判決です。
裁かれたのは山下奉文陸軍大将。
山下は大東亜戦争緒戦のシンガポール陥落(1942年2月15日)の際、イギ
リスのパーシバル将軍に「イエスかノーか」で降伏を迫り、連合軍に「マレー
の虎」としてその名を恐れられていた将軍でした。
┌──────────
│編集部注:山下 奉文(やましたともゆき)陸軍大将
│高知県香美郡大杉村(現、大宮町)出身
│1885(明治18)年11月8日生―1946(昭和21)年2月23日マニラで没(法務死)。
│
│陸大卒業後、参謀本部付、1919(T8)から3年間スイス・ドイツに駐在。
│27(S2)オーストリア大使館兼ハンガリー公使館付武官。その後、軍事課長、
│北支那方面軍参謀長、航空総監等を歴任。2.26事件のとき帰順勧告書を
│作成。40ドイツ派遣航空視察団長となり、ドイツ機甲部隊を調査、41以降関
│東防衛軍司令官、第1・2方面軍司令官。
│42シンガポール占領時パーシバル将軍に降伏を迫ったが、フィリピンへ転戦
│後その逆の立場となり、敗戦後46マニラ大虐殺等の責任を問われ、マニラで
│処刑された。
│
│△ コンサイス日本人名事典 △
└──────────
山下裁判は、1945年10月8日、日本降伏直後に慌しく始められます。
ところが、連合国軍最高司令官のマッカーサーによって任命された裁判官5人
は、全員がマッカーサーの部下の職業軍人で、裁判に関してはズブの素人でし
た。そしてそれだけではありません。
マッカーサーは、軍事裁判所の訴訟手続きも自らが全部定めてしまいました。
山下大将は、日本軍が行ったとされるマニラでの虐殺行為に指揮官として責任
があるという理由で起訴されていましたが、山下大将にとっては全く身に覚え
がないことでした。
事実、検察側がいくら多くの証人をくりだしても、山下が残虐行為に関係して
いたという証拠は出てきませんでした。それどころか、法廷での真摯な山下の
態度に多くの人々が感銘を受けました。
裁判を最初から傍聴していた各国の新聞記者12人に、あるべき判決を事前に
アンケートしたところ12対0で全員が無罪としました。しかし裁判官によっ
て下された判決は有罪、しかも絞首刑でした。
┌──────────
│当時の新聞に寄せられている山下将軍の声明文
│
│余は今日、告訴第一日と同様安らかな気持ちである。余は余に対して加へら
│れた非難がすべて事実無根であることを神かけて誓ふ。また裁判そのものに
│関しては、敵国将官たる余に対して良心的にして高潔なる錚々たる米軍士官
│及び名士方が弁護人として協力してくださったことについて、米国に潔甚の
│謝意を表したいと考えてゐる。
└──────────
続いて同じ年の12月18日、今度は本間雅晴中将の裁判が始まりました。
本間中将は「バターン死の行進」の責任者として起訴されました。この事件は
1942年(昭和17年)4月の、フィリピン・バターン要塞陥落後、移送中の
7千人の捕虜が飢えとマラリアで死んだ事件です。
┌──────────
│編集部注:本間 雅晴(ほんままさはる)陸軍中将
│新潟県佐渡島(畑野町宮川)出身
│1887(明治20)年11月27日生―1946(昭和21)年4月3日没
│
│1907(明治40)年05月 陸軍士官学校(19期)卒。
│1915(大正4)年12月 陸軍大学校優等卒。
│1918(大正7)年04月 イギリスに派遣。
│1922(大正11)年8月 少佐に昇進→インド駐剳武官→秩父宮付武官→
│イギリス大使館付武官。
│1930(昭和5)年8月 大佐に昇進。1932(昭和7)年7月 陸軍省新聞班長。
│1933(昭和8)年8月 歩兵第1聯隊長。1935(昭和10)年8月 少将に昇進。
│歩兵第32旅団長。1938(昭和13)年7月 中将に昇進 第27師団長。
│1940(昭和15)年12月 台湾軍司令官。1941(昭和16)年11月 第14軍司令官。
│フィリピン攻略戦を指揮。
│1942(昭和17)年8月 予備役編入。
│
│1946(昭和21)年02月 マニラ軍事法廷で「バターン死の行進」の責任者とし
│て死刑判決を受ける。04月 マニラで銃殺刑。
│
│△ 人名辞典 △
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/ho/_index.html
└──────────
本間中将の裁判は何もかもが山下裁判の引き写しでした。
本間中将の場合も、残虐行為のどれか一つでも命じたか知っていたことを示す
証拠を検察側はなにひとつ提出できませんでした。それどころか、本間中将は
捕虜移送については国際法を遵守して友好的に扱うよう部下に厳命していたの
です。
実はマッカーサーは、本間中将に対して激しい復讐心を抱いていました。
というのは、彼は本間中将によって、3年前にフィリピンから追い落とされ、
それが彼の軍歴の唯一のキズとなっていたからです。
翌年2月11日、本間中将は銃殺刑と判決されました。
山下、本間裁判は、裁判という名を借りたマッカーサーの私怨を晴らす復讐劇
に過ぎなかったといえます。
軍事裁判で山下の弁護人であった米国人のフランク、リールはこう書いていま
す。「祖国を愛するいかなるアメリカ人も、消しがたく苦痛に満ちた恥ずかし
さなしにはこの裁判記録をよむことは出来ない。我々は不正であり、偽善であ
り..復讐したのであった」
この二つの裁判こそ東京裁判の前哨戦だったのです。
―――― 東京裁判では、
検察団はもちろん、11人の判事も戦勝国である連合国からのみ選ばれ、弁護
団は敗戦国である日本と連合国の双方から選ばれました。では、その東京裁判
では、法曹常識に基づいた公正な審理が行はれたのでしょうか。
――否、裁判は公正ではありませんでした。
裁判に名を借りた、勝者の敗者に対する一方的な復讐、つまり「勝者の裁き」
だったのです。
裁判の審理は、おおむね証拠調べが中心となります。数々の証言や文献資料等
の中で、何を取りあげ法廷証拠として採用するかどうかが審理を左右する重要
問題です。
弁護側は審理の過程で、日本に有利な証拠の数々を法廷に提出しました。
しかし、検察官の主張や裁判長の裁量によって、それらの多くは却下されまし
た。弁護側がせっかく作成したにも関らず、却下になることを予想して提出前
に諦めた未提出の証拠と合わせるとそれは3千3百6件に及びます。
提出した資料のうち、弁護側のものは実に32%が却下されたのです。
弁護側の証拠が却下された理由は「証拠価値なし」「関連性なし」「重要性な
し」というものでした。
―― では、どういう証拠資料が却下されたのかを挙げてみましょう。
1−当時の日本政府、外務省、軍部の公的声明はすべて却下。
2−共産主義の脅威及び中国共産党に関する証拠は大部分が却下、とりわけ、
日本の正式な権益を脅かした組織的な排日運動があった事実は、まったく
無視されました。
3−満州事変以前、満州人の自発的な民族運動が独立運動であったとする資料
はすべて却下。――これは満州国が日本の傀儡国家であることを強調する
ためでした。
4−この法廷は日本を裁くためのものであって、連合国を裁くものではない、
という理由から連合国側の違法行為の証拠資料は大量に却下。アメリカの
対日戦争準備や原子爆弾投下の問題はすべて不問とされたのです。
戦争には、その当事者が両方に存在しています。
一方的に日本の行為の非のみを見て公正な判断など出来るはずがありません。
それにくらべて検察側の証拠は、たとえ、伝聞であっても殆どが法廷証拠とし
て採用されました。却下されたのは僅か3%です。更にそれらに偽証罪は適用
されませんでした。
ということは、検察側は何でも言いたい放題だったのです。弁護側はとても悔
しかったことでしょう。却下及び未提出の証拠資料は法廷外では公表できませ
ん。――そして世に出ることもなく、長く埋もれたままになっていました。
しかし1995年
「東京裁判却下未提出弁護団資料・全8巻」「東京裁判・日本の弁明」
が出版されました。
これらは、戦後半世紀が過ぎ、封印されていた日本の立場を公に明らかにした
ものです。
= 自虐史観の枷を解く(9)へ続く =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
↓
「自虐史観の枷を解く(8)」を読んで、
┌─┬───────────────────────────────┘
│●│ 前回のアンケート結果。
└─┘
◇ このとおりだと思う --------------------------------- 43人 (88%)
◇ そうではないと思う --------------------------------- 1人 ( 2%)
◇ どちらともいえない --------------------------------- 4人 ( 8%)
◇ よく分からない ------------------------------------- 1人 ( 2%)
┌─┬───────────────────────────────┘
│●│ コメントボードに頂きました感想。
└─┘
┌--------「ミカの赤い服さん」
gosakauさん、こんにちは。
私は、応援しています。
中学生の時に観た映画『二百三高地』がDVDになっていました。
祖先がどんな状態で、何を考え、何をしたか、という事は日本人として正しく
理解しておきたいです。
└--------
┌--------「気分は情報無限さん」
色々な名作がDVDで復活し、インターネットを通じて戦争世代の方々(亡く
なった方も含めて)に接する事が出来るようになったのは嬉しい限りです。
今までテレビに出演していた、自称「戦争世代」の胡散臭さにウンザリしてい
ました。
恐らくこれからも、理不尽な批判が多発すると思いますが頑張って下さい!!
└--------
┌─┬───────────────────────────────┘
│●│ お便りで頂きました感想。
└─┘
┏━━━━━━━━━━「yuriさん」女性@五十代@主婦@東京
「日ソ間には1941年4月に結んだ中立条約があり、スターリンはヤルタ協
定から二ヶ月後の4月5日、日本に中立条約の不延長を通告して来ました。
5月8日ドイツ無条件降伏、ソ連は兵力をソ満国境へ移し、米英との約束通り
日本に宣戦布告して満州に攻め入った。」
これはgosakuさんの2003/09/26付けの記事ですが、不延長の通告があったとい
うのに驚きました。するとソ連は条約を破って攻め入ってきたということでは
ないのですね。
「国際スパイ、ゾルゲの真実」角川文庫を読んでいたら、
1941年ドイツがソ連に攻め入ったあと、中立条約を結んだあとにも関らず
日本はドイツの強い要請を受けてソ連に攻め入ることを検討していた。ドイツ
は三国同盟があるので、背後からソ連を攻撃することを要請したのです。
日本はソ連に対して有利とみたら攻め入っていたかもしれません。
時の外務大臣松岡洋右は強くこれを主張しました。もしそうしていたら、日本
は中立条約を破ったことになりますね。
ソ連にとってはこれは非常な脅威なので神経を尖らせていました。ゾルゲはそ
の情報を正確にソ連に伝えていたのです。
もしかしたら、終戦の頃、この恨みもあったのかもしれないと思いました。
┗━━━━━━━━━━
┏━━━━━━━━━━「mugaikojiさん」男性@七十代@大阪
―― 投稿を読んで
ご存知のように、戦後の荒涼とした日本と日本人を立ち直らせた人々が、今日
経済大国を作る基礎を齎せました。残念なことにその頃の政治を握る首相とし
て、私見として吉田茂以外に明治維新の愛国的気概を持った政治家が少ないよ
うです。
彼以後の政治家や教育者は戦勝国に阿り、誤った個人主義を植え付け日本人の
伝統的精神文化である愛国心を忘れてしまったかのようです。
それが現在の混沌とした政治・経済・社会を現出させた種だと思います。
気楽にして理想論平和主義者で、如何にも世論の味方のような文化人やジャー
ナリストの人々に言いたい。
貴方の住む地域社会に、向う三軒両隣のような相互扶助・助け合い精神はあり
ますか。
例えば世界の飢餓に喘ぐ国が無くなる様な精神的努力をしていますか。
そんなことが出来ないようなら戦争に巻き込まれる民衆は救えないでしょう。
世界中の空気・水・資源の多くを我が物顔に使う日本だけの平和などありえま
せん。平和の代償は高くつくのです。
満洲青春録やシベリア抑留記等を読んで何を感じますか?ーーと言いたい。
┗━━━━━━━━━━
┏━━━━━━━━━━「気分は情報無限さん」
―― 自虐史観の枷を解く(7) 2004/01/23を読んで
東京裁判の話は何回聞いても気が重くなります。
実は私の地元に、国連親善大使を務めている女優の紺野美沙子女史が来た時、
講演会のフリー・トーク場面で東条英機大将の悪口を笑顔で話す女性の高齢者
がいました。
私は東条英機の孫娘である人が書いた「一切、語る事なかれ」という本を読ん
だ事があるので非常に嫌な思いをしました。
確かにリンチ裁判をしたのは白人達ですが、我々日本人が疑いもせずに受け入
れたのも事実です。本当のA級戦犯は当時のマスコミでしょう。
今回の自衛隊のイラク派遣に関して、既に関係各国から苦情が出ているそうで
す。以前に OJIN さんが書かれておられましたが、連中も飯を食っていかなけ
ればならないのだから、スクープの為なら綺麗事はいってられないんでしょう
ね。ーー案外、戦時中の日本もこんな感じだったのでしょうか?
┗━━━━━━━━━━
┏━━━━━━━━━━「mugaikojiさん」――――――――― 2004/02/06
―― 押し付けられた市民という言葉。
戦前の“市民”は、江戸幕府ができる前もできた後も諸藩・諸国から来た武士
の家族、主として経済を拠りどころにした町民たちが、生きていく知恵として
生まれた助け合いの精神、それが向う三軒両隣的感覚を醸成し、それにより市
民が構成されたのでしょう。
明治政府はその形成過程を尊重・利用して市民という言葉を使って市民の権利
と義務を与えていたと思います。周辺地域との対立により派生した欧米的民主
主義の“市民”とは成り立ちが違うのですが、戦後GHQは、最も重要な政策
にその基盤を無視し続けたわけです。
かっての日本人の社会基盤が破壊されたため、今日の身勝手な履き違えた民主
主義が横行し、愛国心どころか隣人愛さえ失ったのだと思います。
┏━━━━━━━━━━「坊主2さん」男性@六十代@山形
たろおじさんへ
私は戦争"絶対"反対が戦争に最も近いというお説には納得できません。
多数が、歴史に学ぶこともせず自利だけを重視する現在の日本社会を見る限り
の論理では、そういうあきらめ論理に陥らざるを得ないでしょう。しかし人間
の知性と理性に基づく智慧で、戦争をなくすことができると希望を持つことは
出来ませんか。
現に紛争を武力で解決することはしないとする憲法を持つ国家が、日本だけで
なく20世紀に生まれたでしょう。それをたてに日本の首相がイラクに兵を出
すのはやめようと国連で言ったとしたら、アジアから、アフリカから、どれほ
ど大きな信頼を獲得できたでしょう。
イラク出兵は不正義で反対だとする声は多数だとの報道があったでしょう。
たろおじよ、こころの時代といわれてるのに、目を覚ませ。
戦争はいやだ、戦争は反対だとする人は多数になっていること気付かないで、
戦争に反対のなにもしないで評論家のつもりも多数いることが問題でしょう。
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┏━━━━━━━━━━「生育@北海道、現在@サンフランシスコさん」
―― 女性@三十代@会社員 ―――――― 2004/01/31
YUKAさん、
女性の観点から、また日本で複雑な立場に置かれた経験からのお話、本当に有
難うございます!
この間始めて中国(上海)に行き、こちらの中国人を観察して察してはいたこと
を自らの目で確認してからは、「ChinaChips」の記事を読んでは中国生活擬似
体験をしております。
現在アメリカ人の夫と二人暮しで、近い将来、将来の子供のために日本に移ろ
うかと思案中です。そんな中、日本語が出来なくても精一杯ガンバろうとする
YUKAさんの旦那様の姿に心打たれています。うちの夫は日本語は多少出来ます
が、YUKAさんの旦那様ほど「言語が出来なくても、何でも良いから生活の為に
頑張ってお金を稼ごう」という風に貪欲になってくれるかどうかちょっと不安
です。
子育て等でお忙しかろう中、面白い記事を連載してくださって有難うございま
す。そして、管理されている OJIN 様にも非常感謝です!
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┏━━━━━━━━━━「YUKAさんから」
生育@北海道、現在@サンフランシスコさん、はじめまして。
嬉しいお言葉、ありがとうございます。
最近の王ちゃんは日常会話は不自由しなくなったらしく、現在はスキルアップ
に励んでいます。3月からは減給を覚悟の上で、他のお店で働く予定です。
彼の夢は“自分の店を持つ”事ですから、今は修行の日々です。
・・・なんてデッカイ夢なんでしょう・・・
その夢がいつ叶うか・・・本当に叶うかどうかさえ分かりませんが
私は彼を信じています。大事なのは、夢が叶うかどうかより、夢を持って信じ
て進んで行く事だと思います。
生育@北海道、現在@サンフランシスコさんも、ご主人を信じていればきっと
ご主人も気持ちに応えてくれると思いますよ。
住まいや生活を変えるのって、不安で大変なパワーがいる事だと思います。
でも、その中で得たものってなにものにも変え難いものだと思います。
サンフランシスコで生活されている生育@北海道、現在@サンフランシスコさ
んは、もうご存知でしょうが・・・
私達もいづれは中国へ戻って、一から始めるつもりです。
多分私が40を過ぎてからになると思いますが、その頃にそんなパワーが残っ
ているのでしょうか・・・?・・・う〜〜〜ん・・・(眉間に皺)
多少の不安はありますが、新しい生活を想像すると、今から胸がワクワクして
きます。
この文章、左手で眠る息子を抱えながら、片手で打ち込んでいますが、久しぶ
りに表現する楽しみを思い出しました。
生育@北海道、現在@サンフランシスコさん、ありがとう。
そして、頑張ってください。
┏━━━━━━━━━━「半日半華人さん」
♪♪産まれました〜♪♪v(^^)v
本日(2月4日)未明、3750グラム・57センチのビッグサイズ。
しかも普通分娩で・・・妻は偉い!!
これから長女(成り立て)を連れて病院へ行ってきますッ!
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┏━━━━━━━━━━「(^^) OJIN です(^^)」
―― リリリ〜〜〜〜ン♪♪
O:おめでとうございま〜〜〜す♪
半:ありがとうございま〜〜〜す♪
O:ところで男の子?‥‥女の子なの?
半:・・・女の子..でした・・・。
O:半華人さん?!女の子の作り方しか知らないんじゃないんですか〜??
半:たはははは、、、、。
―――― 皆様からも、"お祝いの言葉"でも"ヒヤカシの言葉"でも、をお待ち
いたしております!!
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┃▼▽ あとがき ▽▼
┃
アタシが田舎へ行ってもね、面白いことなんてなんにもないんだ....。
、、テレビを見るっていったってさー、、
おじいちゃんちのテレビはアタシがまだ小さな子どものとき....20年ぐらい
前?....に買ったものだから白黒で、時々、人の姿が映ったときに足が頭の上
に映ったり....みたいになるんだよ、、。わかるかな??
だからあんまり見る気がしないしさ〜。
おじいちゃんなんてサ、テレビを見るか、お酒を呑むぐらいしか楽しみがない
でしょう、、、だからアタシ、、今年はね、テレビを買ってあげよう!と考え
てるんだ、、。
面白くもないのに、じゃーどうして田舎へ行くのかって?
アタシはさー、おじいちゃんのとこにいると安心..ってゆうか心が安らぐんだ
よねー。アタシのこといちばん分かってくれてるのがおじいちゃん....。
アタシさー、この前、いま離婚のことでダンナとグチャグチャしてることおじ
いちゃんに話したんだー、「足と靴が合わなくなっちゃった....」って..
そしたらさ..
「靴が足に合わなくなっちゃったのか?足が靴に合わなくなったのか?」・・
って言われちゃった、、。
・・靴が変るわけないんだよね〜・・
♪
ーーおじいちゃんに新しいテレビを買ってあげよ..っと....♪
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ではまた、ホントに愉快な月曜日号!で、お会いいたしましょう!(^o^)丿

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