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坂の上の雲を! ――――――――――― by 紋起さん |
☆ 足らざるもの(2) ――――――――――――――― 2009/05/13
北部仏印に進駐してからの日中戦争(支那事変)の変化を見ると、大きな動きは
なく、終結に向かう様子などない。ーーー占領すべき都市は昭和13年末頃ま
でにほぼ手中に収めているのだが、(蒋介石)国民政府は投降する気配がない。
その一方、北部仏印に進駐してから後のほうが、米英などからの蒋介石に対す
る援助はおおぴらで、かつ大量になされるようになった。英国は、日本の要求
でビルマからの援蒋ルートを閉じていたが、再開した。
資金援助も、米国は北部仏印進駐直後の2500万ドルの借款に加えて、11
月末に5000万ドルの借款を供与しているが、米国のみならず、英国も12
月に1千万ポンドの援助を与え、その次の日にはソ連も1億元の借款に応じて
いる。
結果論的に言えば、北部仏印進駐をしたら蒋介石への援助が大規模化して、逆
に解決から遠ざかった、ともいえる状態になった。しかし、不思議に北部仏印
進駐という手段が日中戦争終結への方法として良かったのかどうか、を論じた
ものは見たことがない。
日中戦争そのものの進展に関してみれば、占拠している「点=都市」から「面
=地域」に拡大する努力を継続していたものの、大きな成果を得たわけではな
かった。逆に、国民政府側及び八路軍からの、組織的反撃を受け苦戦する場面
もあった。
北部仏印進駐の後に特筆すべきは、汪兆銘の国民党政権を承認するのかどうか
等で右往左往していたことと(昭和15年11月承認)、日米通商航海条約が失
効したままなので、石油禁輸が起こり得ることを懸念して蘭印と物資輸入交渉
を続けていたことである。
当時の石油輸入量は年540万トンで、約85%を米国から輸入していた。日
米通商航海条約が失効した状態だから、蘭印から輸入しようということで商工
大臣小林一三が派遣された。
しかし、蘭印の石油産業を支配していたのは、ローヤルダッチシェル(英国系)
とスタンダードバキューム(米国系)の2社で、実質的に米英政府の意のままに
動いていたので、交渉は日本の思惑通りにはならなかった。
また、交渉途中に日本が三国同盟を結んだので、石油がドイツに渡るのではな
いかとの懸念を持たれ、心証を著しく害してもいた。
それでも覚書が交わされ、輸入総量205.2万トン/年、要求は300万ト
ン、従来は60〜90万トン)であったが、石油の質と、契約期間が半年と、
満足のいくものではなかった。
小林一三が帰国後、交渉は、ベテラン外交官の芳沢謙吉により、翌年1月から
再開されたが、矢張りドイツへの再輸出の懸念と、また、緊急時には米国から
蘭印への軍事援助と引換えの戦略物資(ゴム、錫、ボーキサイト)の対米供給確
保を約していたので、日本側の増加要求に応じなかった。
特に、本国オランダを占拠するドイツに対する憎しみは甚だしかったので、三
国同盟に加わる日本に対する用心は厳しいものがあった。ーーー交渉は進展せ
ず、6月17日に打ち切りとなった。
この蘭印との交渉が思うようにいかないことが、南部仏印進駐に大きく影響を
与えた。蘭印交渉決裂の約1週間後に、南部仏印進駐の「時局処理要綱」を決
めるのである――――。
北部仏印進駐以前の話に戻るが、
日中戦争が泥沼化するにつれて、東南アジアに南進して欧米の援蒋行為を止め
させて、蒋介石を降伏させるのだという勇ましい話は当時からあった。これが
「南進論」である。
近衛内閣発足間もない昭和15年7月27日に決定した「時局処理要綱」=こ
れが仏印北部進駐になるのだが、その主旨は「状況により武力を用いても援蒋
行為を中止させる」とする一方、
蘭印に対しては「暫ク外交的措置ニ依リ其ノ重要資源確保ニ努ム」と書き始め
るものの、本心は、
ドイツが英本土上陸に成功した時は、英国は植民地に構っていられなくなるの
で、シンガポールを攻撃して英国勢力を駆逐し、蘭印資源を手に入れる、とい
う想定の文章が後段に挿入され、決定されていた。
ーーー以前、歯軋りゴマメ様に「陸軍はソ連にのみ関心があり南方には関心が
なかった」とコメントしたことがありましたが、間違いでした。陸軍の一部、
特に杉山参謀総長らは南進を主張しておりました。お詫びすると共に訂正させ
て頂きます。
しかし、それから約9ヶ月後の昭和16年4月17日に、「時局処理要綱」が
新たに大本営陸海軍部により合意されるのだが、それは昭和15年6月の「時
局処理要綱」から一転、武力による「南進」をやらないことで決定された。
それは、ドイツの勝利が決定的と見られていた時期から、雲行きが怪しくなっ
ていた状況の変化と、英国がたとえ敗れても、シンガポール等を攻めると米国
からの宣戦布告を受けるという英米不可分の見方が有力になったからである。
特に、外相の松岡洋祐から、南進すると米国と戦争になるぞと言われ、海軍か
ら消極論が出るに及んで、蘭印を武力でという考えを抑制せざるを得なかった
のである。しかし、
昭和15年秋に人事異動のあった海軍軍令部では、
海事国防政策委員会第一委員会に、昭和16年6月に海軍意思統一のための答
申を提出させたが、
それまでの消極論を払拭して、南部仏印まで進駐し、米国より石油禁輸がなさ
れたら直ちに蘭印に武力侵攻すべし、という考えであり、新任の軍令部第二課
長石川信吾らの対米強硬派の影響が色濃く出たものであった。
また、4月中旬に独ソ開戦があるとの情報がもたらされ、陸軍も4月の「時局
処理要綱」は忘れて、仏印を軍事的支配下におこうとする論が強力に復活して
きており、その論の中心は新任の田中新一作戦部長であった。
彼は、有末戦争指導班長の反対を、腕力に訴えんばかりにして押さえつけたと
いわれている。ーーーそして陸海軍中堅急進派は、英米の妨害にあえば戦争も
辞さない、と高言するに至った。
日独伊三国同盟→要所に急進派を据える人事異動→独ソ開戦→蘭印交渉決裂、
の流れの中で「南方施策促進に関する件」が6月12日に提出され、松岡外相
の反対等の紆余曲折を経たものの、大筋、当初案で25日に決定され、上奏裁
可される。
仏印南部進駐の目的は、蘭印に圧力をかけて、資源調達を完遂したかったので
あった。この「南方施策促進に関する件」に「対英米戦争ヲ賭スルモ辞セズ」
なる語句が挿入されているが、
これの原案は、中堅参謀らが、松岡外相が常に仏印南部進駐について「対英米
戦争になっても構わぬか」と抑制をかけていたので、それを説得する為に入れ
たとされているが、それが一人歩きをしてしまうのである。
7月2日「南方施策促進に関する件」も含めて「帝国国策要綱」が御前会議で
決定された。
これに基づき、駐仏日本大使がビシー政権と交渉し、仏印南部進駐が行われた
のである――――。
= この稿つづく =
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┃●┃ 読後アンケートの結果。
┗━┛ ◇ この説に賛成 ---------------------------------------- 8人 (42%)
◇ どちらかといえば賛成 -------------------------------- 6人 (32%)
◇ どちらともいえない ---------------------------------- 5人 (26%)
◇ どちらかといえば反対 -------------------------------- 0人 ( 0%)
◇ この説に反対 ---------------------------------------- 0人 ( 0%)
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┃●┃ お寄せいただきましたご意見や感想。
┗━┛ ┌──────────「さぶろうさん」
今回は、紋起さんのご提言はなく、史実の列挙でしたので「どちらともいえな
い」に投票しました。
仏印進駐の代わりに何をすれば良いと紋起さんが考えておれらるのか、次回わ
かるかも知れないので楽しみです。----意見の違う方の良い意見というのは、
とても面白く、勉強になります。
ちなみに、さぶろうの意見では、仏印進駐では遅過ぎで、遅くとも日華事変の
回避が妥当であったと考えています。
満州事変までは日本陸軍にも、良いか悪いかは別にしてグランドデザインがあ
りました。石原莞爾の、5族協和によってソ連(ロシア)を押さえ、東アジアの
国々と仲良くして、将来はアメリカと決するというデザインです。
かろうじて実現できそうなデザインはここまでで、石原が関東軍の参謀から転
出すると、自らの立身出世しか念頭にないのではないかと思われる参謀や将校
たちが中国との紛争を拡大してゆきます。
ーーー周りじゅうを全部敵にしては、まず勝てません。
できれば、日清戦争の戦後処理=遼東半島の租借を要求しない)まで戻りたい
ところです。ここで、清に対して過酷な要求をしなければ、後の対中国外交は
ずっと楽だったはずです。
次のチャンスは、満州鉄道経営にアメリカの資本を巻き込むことです。これは
石原のデザインとは異なる道となります。
└──────────
▼
┌──────────「紋起さんから」
ご指摘の通り、今回は史実を追いかけている記述でしたので、コメントもされ
にくかったと思います。ただ、申し訳ないのは「足らざるもの(3)」でも、ど
うしたら良いかを示していないことです。
稿が長くなり、またもや(4)を読んでいただかなくてはならなくなりました。
お許し下さい。
どこまで戻ってやり直すかは、重要なポイントですが、もし戻れるのなら私は
山縣有朋が、己の野望の為に参謀本部を独立させた明治11年に戻したいです
ね。これが、統帥権独立に繋がっているのですから、これある限りは軍に対す
る制御が効きません。
満鉄のアメリカ資本の参加は、私も大いに賛成です。しかし、何故日本人は外
国資本の参加を拒むのでしょうか。現在でもそうです。ーーーハゲタカファン
ド等の名を付けて毛嫌いしますよね。
日米安保があっても、有事の際に日本をアメリカは守らないと言う人が多いの
ですが、----私もそれは多分真実だと思います----もし、アメリカ人が日本に
資産を持っていたら、絶対にアメリカ自身から軍隊の出動を要請しますよ。
だから、アメリカ人に日本国内の資産を持つのを認めるのは安全保障になるは
ずです。同様に、アメリカ人を多数日本に住むようにさせたら、自国民を守る
為に軍隊を出動させることをアメリカ国民が認めるでしょう。
外国人が入ってくること、その人達が日本で資産を保有すること、これは日本
の安全にもなります。だから、あの時代に満鉄を日米で共同経営していたら、
様子は変わったと思います。
利益が多少減っても、シェアしたほうが安全に寄与するということは沢山あり
ます。儲けを独占するという「欲」が強過ぎるような気がします。羽田の空港
ビルの資本参加を拒むなんて、バカのやることではないでしょうか――――。
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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