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坂の上の雲を! ――――――――――― by 紋起さん
☆ 負けないために:賛否意見(5) ――――――――― 2007/01/15
※ 元の主張の「負けないために」を読み返すには
http://chinachips.fc2web.com/argue3/monki.html

┌──────────「渡辺龍二さん」―――― 2006/11/23

「マレーシアの中学校の教科書」それは何という教科書ですか。

「ア)」は占領地の軍政のことです。これは正式に日本の領土に編入したかど
うかとは関係ありませんよね。 イ) ウ) エ) オ) は本当のことですか。

紋起さんは、インターネットでいろいろと調べられて返事を書いたのだと思い
ます。インターネットで実際に核心の事実にあたるのは難しいのかもしれませ
ん。しかし、それでも実際に調べられると当時の歴史の感覚がわかってくると
思いますよ。
それと、最近は徐々に是正されてきていますが、HPなど作って一生懸命やら
れている人たちは、自虐史観で学んできた人たちがまだ多いので注意が必要で
す。
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┌--------(紋起さん)
2)東インド(インドネシア)を独立させるとは、小磯首相が昭和19年9月に
発表しますが、独立準備調査会の設置は昭和20年3月で、インドネシアに独
立許可を出し、独立準備委員会の設置は昭和20年8月7日、結局、独立宣言
をしたのは、日本の敗戦後の8月17日でした。
└--------
独立したのは8月17日でしょう。もし紋起さんの言われるとおりであれば、
日本がインドネシアを正式に日本領土に編入した後に、それから日本が領土を
分割するという決定をして、日本から独立したということになります。そうい
うことですか。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「以上の部分についての余談」

ーーー紋起さんの反論は反論になっていないし、議論が混乱してはいけないの
で、議論の本筋とは関係ないことはここに書きます。

それと、以下は余談ですが、ロームシャのことなども違ったニュアンスで伝え
られています。例えば、人口の多いジャワからの出稼ぎというのは、昔から続
いていたことで、それができないとジャワは人口過多で困るわけです。日本軍
は、利用もしましたけど、日本軍なりの努力もしていますし、統計的なものも
残っています。

オランダが再びインドネシアを植民地にしようと軍隊を送ってきた時に、そこ
には独立のための武器と軍隊があったわけです。これは戦前のインドネシアで
は考えられなかったことです。武器の使用どころか、たしか数人で固まって歩
いたり、集会をすることも禁じられていたと思います。

誰が武器を渡したのか、誰が武器の使用法や軍などの組織を教えたのか、誰が
インドネシア語を広め、独立の人材を養成したのか、こういうことは(インド
ネシア人にではなく日本人に対して)もっと言っていいことだと思います。

また、大事なことなんですが、現在のインドネシア人も戦後の教科書で教えら
れたり、エリートたちも欧米に留学して学んだりして、当時の本当の歴史を知
らないのです。それで、(他の国でも同じなんですけど)日本人の学者が、イン
ドネシア人を虐殺した穴だなどと宣伝すると、そこがインドネシアで観光地に
なったりするのです。従軍慰安婦やロームシャなどという言葉も宣伝されまし
た。

しかし、実際に当時の独立運動に関わった人たちや、実際に戦った人たちに直
接に話を聞くと感覚は違います。マハテイール首相の言葉も、都合のよい部分
だけ取り上げてはいけないと思います。彼がトータルにどう考えていたのか、
それをふまえて特徴の表れたところを引用すべきだと思います。以上、余談。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「余談ここまで」

『ビルマには国民により選ばれた政権があったが、日本が占領後は独立から遠
ざかった』というのは本当か?

このことについて繰返しますが、日本の侵攻前は『ビルマ自由ブロックをつく
り、バーモゥが総裁に、スーチーさんのお父さんのアウン・サンが書記長にな
ります。しかし、ビルマ自由ブロックは非合法化されて、バーモゥ初め多くの
人々が殺されたり投獄されます。アウン・サンも英官憲から指名手配されて、
首には多額の懸賞金がかっていました。アウン・サンは日本に亡命して30人
の同志たちと日本で軍事訓練を学びます』(渡辺龍二)

以上のことから、日本軍の侵攻前に、ビルマに国民により選ばれた政権があっ
たといえるのでしょうか。そして、
『彼等がビルマ独立義勇軍の中核となって、日本軍と共に進軍したわけです。
彼等と日本軍の行くところ、民衆は協力しビルマ独立義勇軍は膨れ上がり、蜂
起とゲリラ活動が広まり、英軍は敗退し英国の植民地支配は瓦解した訳です。

そして、ビルマが独立したのは、昭和18年8月でした。首相はバーモゥで、
アウン・サンは国防大臣です。ただ、大戦争の最中です。ビルマからインドに
侵攻した日本軍と、チャンドラボースのインド国民軍は無残な負け方をして、
さらに逆襲する英軍との戦いでビルマ全土が戦禍にみまわれます。そして日本
の敗戦の間際にアウン・サンたちは日本軍を攻撃します。(渡辺龍二)

以上のことから、ビルマが日本によって独立から遠ざかったといえるのでしょ
うか。
紋起さんは、インターネットで調べつつ書いておられると思うのですが、先に
述べたように、まだまだ自虐史観のHPが多いので、注意が必要ですよ。アウ
ン・サンが戦後に英国と対等に交渉できたのも、英国の意志に反することが可
能だったのも、自国の軍隊と武器があったからでしょう。英国に統治されてい
てそれを持つことが可能だったかどうか疑問です。

歴史や国家間のやりとりに一方的な善意なんてありません。日本は日本の利益
と生存が第一です。そして、まさに国家の存亡をかけた大戦争の最中です。し
かし、そういう中にも独立を認める動きがあったわけです。『ビルマには国民
により選ばれた政権があったが、日本によって独立から遠ざかった』などと、
全面的にそれも否定するような考え方には疑問を感じます。少しでも日本とい
う国を悪くみようという悪意が感じられます。

悪意といえば例えば、『アウンサン他1名が、日本の鈴木教司大佐と共にビル
マを脱出し、アモイに逃れるも、逮捕され東京に送られる。(40年)』のとこ
ろですが、本当にアウン・サンは『逮捕』されたのですか。小さなところです
けどこういうところからも、少しでも日本を悪くしようとする悪意を感じるの
ですよ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「以上の部分についての余談」

ーーー議論の本筋とは関係ないことはここで述べます。

ここ20年ぐらいのうちに日本の思想状況に変化が出ています。例えば、先の
大戦でもビルマやインドネシアなどの事例がとりあげられるようになり、左翼
の人は、以前は全て日本が悪いというようにいっていましたが、最近では個々
に良い日本人がいて、軍や政府に抵抗してやったということを強調するように
なってきています。ユダヤ人救出の関係でもそうです。

現在の日本国内の思想状況は、こういう大きな流れの中にあります。

もちろん
国や組織の方針に明確に反する行為であれば、やれませんしやってもその行為
自体は取り消されます。しかし、普通は多くの人がさまざまな方向性を持って
動いているわけです。その中で派閥や力関係や多数派で方針が決定されていの
ですし、状況で変わってもいくのです。
--------
上の文は何について述べているのか、原文の前後の文脈からは意味が通らない
と思います。――――これは、国の中にもいろいろな意見や方針があってぶつ
かりながら進んでいるのだ、ということを述べたものです。なぜこういうこと
を書いたかというと、

左翼の人たちが、例えば「杉原領事のユダヤ人救出は日本政府の方針に逆らっ
てやったことだ」などと宣伝しています。(しかし、杉原の違法行為が追認さ
れたのは、日本政府にユダヤ人救出の意図があったからだというのは自明のこ
とです)このことと同じように「ビルマやインドネシアでも良いことをやった
人たちは、国の方針に逆らってやったのだ」などと左翼の人たちが強調してい
ることに対してです。

日本の国にだけ厳しい基準をあてはめて、「日本の国は悪いのだが、中には良
い日本人もいた」という論調への反論です。
--------

アウン・サンが日本軍に『逮捕』されたのかどうかというところなどもそうな
んですが、本当のことならいいのですけど、日本に対する悪意をチクチクと感
じます。
さて、アウン・サンの動きについては、当時の日本の陸軍軍人は、首班をアウ
ン・サンにせずバーモゥにしたのが間違いだったと考えている人が多いようで
す。海軍側は、また別の派の人を支持していました。

私の個人的な考えでは、アウンサンは保険をかけたのだと思います。もちろん
大戦争中ですから、日本側の対応は、アウンサンたちや独立義勇軍の人々が満
足するようにならないのは明らかな事実です。そして答は、日本が戦争に勝っ
た後にしか出ないわけです。そして、日本の敗戦が明らかになったこの時点で
はアウンサンたちがそういう行動に出るしかなかったことは理解できます。

ビルマ軍が反乱を起した深夜、高橋八郎中尉は、軍事顧問としてビルマ軍の司
令部にいました。軍刀と拳銃をとりあげられた高橋中尉に、ビルマ軍の参謀長
のボ・セヤ中将(30人の同志の1人)は「今の銃声を合図に、われわれは不本
意ながら反乱を決意しました。あなたには済まないと思っています。・・・・
・・どうかわれわれの苦衷もご理解下さい・・・・・・」と言っています。

アウン・サン(30人の同志:ビルマの指導者)は「これ以上日本と行を共にし
ておれば、日本の敗北と共にビルマは崩壊します」と述べています。また彼は
まだ英国から回答は得ていない、回答は自治領にとどまるのではないか。しか
し、独立をすべて認めないというのであれば英国と戦うのみ。取引(ビジネス)
であるということを英国に示すためにこうしなければなかった、という趣旨の
ことも正直に述べています。

ボッ・セッチャ(30人の同志:後の国防次官)とボ・ヤナイ(30人の同志:
後のバーモゥの娘婿)は反乱に加わりませんでした。ミン・オン(30人の同
志)は、反乱決議が決った時に、それを諌めて信義を示すために自殺していま
す。ーーー以上は余談でした。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「余談ここまで」

東條は支那人、満人を蔑視していたのか?

『東條は・・・・・支那人、満人を蔑視していたとも言われる』(紋起さん)
『福田和也氏は、「元来、アジア諸国を蔑視する傾向の強く、大東亜共栄圏諸
国の独立、自立よりも、日本への物的、人的貢献のみに興味を持っていたとさ
れる東條は」と「地ひらく」で書いてます』(紋起さん)

東条首相は、特に差別をしていたのかな。ユダヤ人への人種差別などに対して
は、明確に反対して救ったりしていましたよね。福田和也氏の言葉ですが、こ
ういう抽象的な言葉で「東條は支那人、満人を蔑視していた」いう証拠にはで
きないし思うし、この言葉を根拠に、「東條は支那人、満人を蔑視していた」
とはいえないと思いますよ。 どうでしょうか。
└────────── ┌──────────「紋起さん」―――― 2006/11/29
渡辺龍二氏へ、ご質問にお応えいたします。 1.まず、私が論じているスタンスについて述べますと、貴兄の言われる『も う少し日本の立場にたって主張できるところまで中心線が動き続けたほうがい いと思います』のような視点に立つものではありません。世の論がどこに立っ ておろうとも、私には、「それからどのような教訓が引き出せるか」の見方が 中心です。 賢者は歴史に学ぶという箴言は、そういう意味だと理解しております。従って 負け戦から学ぶのは、その欠点に焦点が当るでしょうから、昨今の「日本は正 しかった」調の論がお好きな方には不愉快だろうと思います。今後とも、教訓 を得る方向での議論は喜んでさせて頂きます。(罵倒や単なる悪口の類には、 ご返事致しませんが) 間違い、並びに思い込みも多いと思いますので、その節にはご寛大にご教示等 願います。 2.ご指摘のようにインターネットも活用して調べております。貴兄からの、 『自虐史観のHPが多いので注意が必要ですよ』のご忠告ですが、手当たり次 第に自分の都合の良い主張を切り貼りしているようにお思いなんでしょうか。 ソースが信用できるかどうか等は、他の資料との突合せも含めて、それなりに 致しておる積りですので、ご心配なく。ただ、間違いがありました時にはご指 摘をお願いします。 3.日本占領下でビルマが独立から遠ざかったかどうかについて。 「独立から遠ざかった評価もある」というコメントは「Whikpedia 百科事典」 の、大東亜共栄圏の項に書いてあるのを用いましたが、ブリタニカ百科の記述 内容も補強としています。実態はどうであったのか、バー・モウ博士の回顧録 (ビルマの夜明け)によりますと、バー・モウ博士が首相をしている時は、普通 選挙ではないですが選挙はあったようですし、議会は法律や案件の審議を行い 機能していました。 読んでみる → 「ビルマの夜明け―バー・モウ(元国家元首)独立運動回想録」 バーモウ著(Ba Maw 原著) 横堀 洋一(翻訳) 太陽出版:新版版 (1995/07) 1942年8月1日に、日本軍より政府樹立命令が出ます。そして首相はバー ・モウ博士でした。内容は、1)政府は英国支配下当時と同様の行政機能を持 つ。2)議会は廃止。3)軍司令部は、行政に関する一切を支配し、立法の権 限を行使する。4)首相は軍司令部に対して責任を負い、各大臣は首相に対し て責任を負う。5)各省庁を援助すべく顧問が任命される。 というもので、英国支配の時代よりも独立性は後退しているものと思います。 Whikpedia 百科事典の表現は正しいと判断しています。 4.マレーシアの中学の教科書は、このサイトにありますのでご覧下さい。英 語の対訳がありますので読めました。(誤訳があるかもしれませんが) 5.東インド(インドネシア)については、日本領として統治した後、独立させ ることにしたのだと思います。(Whikpedia 百科事典にもそのように記載) 理由は、分りましたら投稿いたします。 6.お聞きしますが、私がマハティールの言葉の都合の良い部分だけを取り上 げています? 一般論なら分りますが、私の投稿に対してなら、彼が自らの経 験した事実を語っている部分ですから「トータルにどう考えていたか」の話と は関係ないですよね。この部分は、新しい教科書をつくる会のHPから持って きましたし、全体的に見ても違和感のない話です。#189で引用しておりま すバー・モウ首相の言葉とも矛盾が無いですよね。 7.アウンサンを首班にしたほうが良いと日本軍が考えていたとのこと。そう ですか、考えられないですね。1943年当時、アウンサン28歳、バー・モ ウ50歳、しかも首相の経験が何年かあり、統治するとはどうすることか理解 してます。 バー・モウの回顧録を読むと、当然ですが、何度もアウンサンと語り合ってい るところが出てきますが、アウンサンとバー・モウとの人物の差は歴然として ますね。それは、まず歳が違いますし、経験が異なりますし、周囲の尊敬の集 め方も違いますもの。アウンサンは、自分の事で精一杯のようにみえますね。 バー・モウ博士は、日本とのコミュニケーションも良く、東條首相とも懇意に やっていたようですし(大東亜会議以前に東京で会い、シンガポールで会い、 色んな要求も率直に語り合ってたようです)東條英機を高く評価しています。 1944年2月には、バー・モウ首相をビルマ軍が殺害し、アウンサンがそれ を証明するために日本人暗殺者にお供をする、という暗殺計画が日本軍により 樹てられ実行するも失敗します。これが、東條首相の知るところとなり、首謀 者の参謀副長は左遷されています。まあ、種々の意見が残されているでしょう ね。 8.私の表現に「日本を悪くしようとする悪意」を感じるとか。何も申すこと ありません、どうぞご随意に。 「アウンサンの逮捕」という言い方になった経緯が分りました。正確にいえば 「逮捕」は間違いです。(元日本海軍大佐のお子さんで、ビルマで生まれ育ち 現在日本在住の女性の管理する、それなりにしっかりしたHPでそう表現して いたので、ヘ〜と思って採用しました) アウンサンは、バー・モウ博士の計らいで、鈴木大佐を頼ってビルマを密航の 形で脱出し(「鈴木大佐と共に」は訂正します)、アモイ(当時は日本占領下)に 到着。しかし、アウンサンは、ビルマの日本領事館にも連絡をとらずに脱出し ていたので路頭に迷うこととなる。 アモイ近くの小村に宿を替えて滞在し、バーモウ博士に手紙で連絡をとり、バ ー・モウ博士から鈴木大佐に連絡。鈴木大佐から台湾の憲兵隊本部にアウンサ ンの写真を送り、アモイの憲兵隊が隈なく探し、病気で衰弱していたアウンサ ンらを見つけ出した。(これが、誤って逮捕という表現になったのでしょう) ――――その後、台北を経由して東京へ行き、そこで鈴木大佐と会う。 9.反論になってないとのご判断ですが、感じ方は人それぞれですから、別に 構いません。 1943年の9〜10月に、バー・モウ首相のもとに、タン・トン、ウ・ヌー (英国から独立後の初代首相)らが訪ねてきて、「既に日本に対する抵抗運動の 組織化を決め、このことでインドの英国軍司令部と連絡を確立した」ことを告 げ同調を求めます。 バー・モウ首相は、「一種の深い道義的理由から、話を聞くことを止め、自ら の廉潔さを守る道を選んだ」結果、「同調する事は辞退したが、彼らが深い決 意から行動している事を知り、彼らが個人的に危機に陥った時は楯として為し 得る事はしてやろうと約束した」 アウンサンは、44年の6月ごろバー・モウ首相を訪ね、立ち上がる事を相談 するが、まだ心を決めかねているようにみえたそうである。そして、44年8 月に抗日運動の反ファシスト人民自由連盟を組織し、タン・トンとアウンサン がその両翼を担うこととなる。 確かに、43年の9月、枢軸国側は負け始めてはいましたが、まだ決定的では なかったときに、独立したてのビルマで抗日戦線が組織され始めていたことは 『このまま日本についていったら、せっかくの独立を失ってしまいます』(渡 辺龍二氏)以外のことも要因になっていると思います。 渡辺氏ご紹介の話のように、日本軍人に対して最後まで好意を持ち続けてくれ た方もおられるでしょうし、それにふさわしい行動を日頃からビルマ人に対し て行っていた軍人の存在を否定する積りは全くありません。 少し長文ですが、バー・モウ博士の回顧録から引用します。 ┌-------- 最も憎むべきだったのは、初めは少人数ではあったが、ビルマで戦うため極東 からの新しい師団の到着により、人数の増えた残忍な征服民族的優越感を持っ ている軍人達であった。私は以前、その人々を“朝鮮派”と呼んでいた。なぜ なら彼らは、朝鮮、満州、中国で植民地戦争をし、そこの行政に携わり、それ らの地で、全てのアジアが屈服すべき大日本の幻想をつちかったからである。 彼らは、勝利と新しい夢と、昔からの欲望と習慣で興奮してやって来た。彼ら は、彼らのアジアでの使命を固く信じ、どこへ行こうとも、その使命を実現し ようと決心していた。一方、シンガポールに南方軍総司令部が設立され、彼ら の権力は増大した。そしてその司令部は“朝鮮派”によって完全に支配されて いた。 (中略) 彼らの多数は、何らかのやり方で、朝鮮や満州のような形でビルマを日本のも のとしておくことを考えていた。ビルマ人の根本的な歴史的、また政情の相違 を全然考慮せず、日本は、その植民地と植民地戦争を扱ったと同じ態度でビル マに接した。 日本軍隊のこれらの人種主義者たちは、すぐにあらゆる権威、権力を要求し、 命令を出して、人を自由に使い、平手打ちをくらわせ拷問にかけ、財産と労働 者を奪い取り、公に支配者と呼ばれ、支配者らしく待遇されることを要求する 程度までに征服民族者気どりであった。 └-------- バー・モウ博士は、これ以外に、同じ趣旨の事を何度も述べておられますが、 好日の方であるだけに率直に聞かねばならないと思います。彼の主張は一貫し て、この“朝鮮派”の輩が、折角日本の為したアジアへの貢献を「九仞の功を 一簣に虧く」が如く失わせてしまい、そのことを大変残念に思っている気持ち が伝わってくる記述です。 ┌--------「編集部注:九仞の功を一簣に虧く」 [きゅうじんのこうをいっきにかく] 高い築山を築くときに、最後のたった簣 [もっこ]一杯の土が足りないだけでも完成しない、という意味で、長い間の努 力も、最後のほんのちょっとの手違いから失敗に終わってしまうこと。 └-------- その一方、「初期は幸運だった」と、司令官飯田祥二郎中将と数名の部下の方 の名をあげて誉めてます。アウンサンらも同じ気持ちだったのではないでしょ うか。 以上、細かい点も含めお応え致しましたが、大きな視野でみた時には、いずれ にせよ私が「負けないために」で記述した内容は、事実と大きく異なるものを 基にして考えてはいないと思っております。 └──────────                       = まだまだ続きます = ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
坂の上の雲をの目次に戻ります







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