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坂の上の雲を! ――――――――――― by 紋起さん |
☆ 負けないために:賛否意見(4) ――――――――― 2007/01/08
※ 元の主張の「負けないために」を読み返すには
http://chinachips.fc2web.com/argue3/monki.html
┌──────────「渡辺龍二さん」―――― 2006/11/17
1)マラヤ、東インドは共に1943年の大東亜政略指導大綱で日本の領土と
なっております。(紋起さん)
これがよく分からないのですが、法的に日本の領土にしたのかな?方針はその
時々の指導部や情勢によってどんどん変わるでしょう。インドネシアは独立さ
せますが、正式に日本領土となったのを法的に分離したということなのでしょ
うか?このへんは大事だと思います。
2)ビルマは1937年、完全自治に向けてインドから分離され、行政は2院
制議会に責任を持つ10人の大臣が構成する内閣に委ねられた。しかし、重要
な権限は依然としてビルマ総督の手中に握られていた。(ブリタニカ百科事典)
(紋起さん)
これも、上のような言葉だけから判断すると、ビルマは独立に近かったのだな
と誤解を持ってしまうと思います。少し詳しく述べます。ビルマ人はインドか
ら分離する総督の方針には反対だったでしょう。インドと一緒のほうが、まだ
自治が高いと思われていたからですよね。
そのうちビルマの政治勢力が結集して、ビルマ自由ブロックを作り、バーモゥ
が総裁に、スーチーさんのお父さんのアウン・サンが書記長になります。しか
し、ビルマ自由ブロックは非合法化されて、バーモゥはじめ多くの人々が殺さ
れたり投獄されます。アウン・サンも、英官憲から指名手配されて首には多額
の懸賞金がかかっておりました。
アウン・サンは最終的に日本に亡命して、30人の同志たちと日本で軍事訓練
を受けます。彼等がビルマ独立義勇軍の中核となって、日本軍とともに進軍し
たわけです。彼等と日本軍の行くところ、民衆は協力し、ビルマ独立義勇軍は
膨れ上がり、蜂起とゲリラ活動が広まり、英軍は敗退し、英国の植民地支配は
瓦解したわけです。
そして、ビルマが独立したのは、昭和18年8月でした。首相はバーモゥで、
アウン・サンは国防大臣です。ただ、大戦争の最中です。ビルマからインドに
侵攻した日本軍と、チャンドラボースのインド国民軍は無残な負け方をして、
さらに逆襲する英軍との戦いでビルマ全土が戦禍にみまわれます。
そして日本の敗戦の間際に、アウン・サンたちは日本軍を攻撃します。
でも、これはしょうがないのです。このまま日本に随いていったら、せっかく
の独立を失ってしまいます。でも、日本軍を攻撃するのは今までの信義に反す
るといって自殺した指導者もいました。また、ビルマ軍の中にいた日本人の教
官は無事に日本側に送り届けていますし、戦後も日本軍の関係者を尊敬してい
ます。
ビルマ軍は、日本軍の与えた武器と訓練で日本軍を攻撃してきたのですが、こ
れはしょうがないのです。彼等の目的は独立ですから。戦後、英国は仮政府を
作り、そのもとで自治を許すという方針でしたが、アウン・サンたちはそれに
反対しました。軍事的実力を背景に英国と協議を重ね独立を認めさせました。
◎とにかく「日本によって却って独立から遠ざかった」というのは左翼の人た
ちの宣伝でいわれている部分があると思います。
3)東条英機の、アジア諸国を蔑視する傾向の強い事は、福田和也氏の発言や
著作にも出てきます。大東亜共栄圏諸国の独立、自立よりも日本への物的、人
的貢献のみに興味を持っていたとも言われています。(紋起さん)
長くなったので簡単に。福田和也氏はどういっているのですか。
4)アジアの植民地各国の独立運動がいつから始まっているかといえば、ビル
マ1914頃、フィリピン1929年、インドシナ1908年、ベトナム19
05年のように、日露戦争で東洋人が勝利したことも影響しているようにみえ
るし、そのような発言が残されている。だから、直ぐには変わる道理はない訳
で、それらの運動が日本軍の敗退で作り出された宗主国の空白期間に結実して
いったのではなかろうか。(紋起さん)
確かにそういう面はあったと思います。でも、実際は独立運動は弾圧され敗北
し、変わってなかったわけです。英国などは、インドをみても統治は上手でし
た。でも、実際のきっかけは大東亜戦争でしょうね。オランダにしても、戦後
も再び植民地にしようとインドネシアに軍隊を送っているでしょう。でも、ガ
ラリと変わっていたのです。戦前のインドネシア人ではなかったのです。
紋起さんの考えを否定はしません。人それぞれ考え方が違うのが当然です。紋
起さんへ共感する部分もあります。
私が言いたいのは次のことです。
日本は、もちろん自国の生存と利益のために戦ったわけですが、日本の大義名
分だけは否定し、米国や中国の大義名分を認めるというのであれば、おかしい
と思います。
また、負けたのですが、日本が酔っ払って暴れたというようなことではなかっ
たと思います。今の目でみれば誰でも結果が分かります。しかし、私たちが当
時の日本人として生きていてどういう判断ができたか、それぞれの局面で現在
よりももっと難しい判断であったと思います。
└──────────
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┌──────────「紋起さん」―――― 2006/11/21
1)日本は、マラヤと東インドを日本の領土として統治しております。マレー
シアの中学校の教科書に当時の統治の様子が書かれているのですが、関連する
箇所の骨子のみを拾い出しますと、
ア)マラヤは、日本占領の全期間にわたって、軍の司令部の指示で動く統治機
構に治められていた。
イ)日本は、マラヤを植民地として統治した。Kenpeitai(憲兵隊)は人々の間
でその取調べのやり方で恐れられた。(憲兵隊はマレーシア語になっている?)
ウ)日本語が学校や通達に公用語として導入され、学校では日本語で教えられ
た。
エ)君が代と愛国行進曲が国歌であった。
オ)日本の銀行は日本紙幣を発行した。重要な会社は、三菱、三井に買収され
た。
これらをみても、日本の領土の扱いですね。(私は、その事が悪いという風に
は思っていませんが、大東亜戦争は植民地解放の戦いであったという論に対し
て、異なる面が多いですといってるだけです。ただ、マレーシアの中学教科書
の書き方は、全体的にみて客観的ですが、日本の統治の仕方に嫌悪感を抱いて
いるように思いました)
2)東インド(インドネシア)を独立させるとは、小磯首相が昭和19年9月に
発表しますが、独立準備調査会の設置は昭和20年3月で、インドネシアに独
立許可を出し、独立準備委員会の設置は昭和20年8月7日、結局、独立宣言
をしたのは、日本の敗戦後の8月17日でした。従って日本の占領下では軍政
が継続され、独立することはありませんでした。
今村均中将時代は、温和な軍政でジャワ現住民にも支持されていたのですが、
昭和17年11月に、今村中将はニューギニア・ソロモン諸島の第8方面軍司
令官に転出し、後任の原田熊吉中将の時代からは、陸軍省の通達どおり武威を
基調にした軍政に改められ、3〜5割の食糧調達や、人員の徴発(一説では、
30万人の徴発で7万人しか帰還出来なかったといわれる)が、一部将校によ
り実施され、対日感情は悪化していったそうです。
そのため現在のジャカルタの独立記念塔には、日本軍憲兵に命じられて鉄道敷
設労働に従事されられているシーンを再現したジオラマが展示されているらし
い。その解説には「Romusha」の語があり、日本語の労務者がインドネシアの
言葉となっているということだ。
インドネシアがオランダから独立するために、苛烈な独立戦争があり、その中
に日本軍兵が、約束が守られていないということで内地への帰還を断り、残留
してインドネシアの人々と一緒に戦った。その数は2千人といわれ、1千人が
戦死したらしい。これらの人にインドネシア政府は感謝していて、叙勲や恩給
の支給をも行っている。
3)福田和也氏は、「元来、アジア諸国を蔑視する傾向の強く、大東亜共栄圏
諸国の独立、自立よりも、日本への物的、人的貢献のみに興味を持っていたと
される東條は、・・」と「地ひらく」で書いてます。雑誌名を忘れましたが、
同様のことを語っておられたと記憶してます。
4)私が、日本の大義名分を無視し、米英のそれを認めているのは偏っている
とご指摘ありましたが、私は米英の大義名分だけを認めているのではありませ
ん。(そも、彼らの大義が何かは知りません)
私の読む限り「開戦の詔勅」は、自存自衛の戦いをやむを得ずやるという主旨
だったと思います。また、戦争は外交の延長線上にあるものという常識に照ら
せば(外交で解決できない問題の解決である)、アメリカとの交渉で、植民地か
らの撤退要求や交渉などなされておりませんので、アジア解放のスローガンは
後で付加されたものだと思っております。
また、実際の占領下でも、欧米のような自主性をもたさずに収奪ばかりの治世
ではなかったといえ、(戦争であった条件下の為、そうなった面がありますが)
食糧や人の徴発は恨みを買っておりその残渣が現在でも残っているようです。
したがってアジア解放のことは、アジア諸国の評価を受けて、大東亜戦争の功
として取り上げればよいことではないでしょうか。
ビルマの独立経緯は、渡辺龍二氏の書いておられる筋書きと、若干異なるとこ
ろがあるので記します。
ア)ビルマは元々インドの州ではないのに、英国の占領・植民地化後にインド
の一つの州にされた。しかも、インドでは第1次大戦後、普通選挙まではいか
ないが、責任政府による自治が英国の基本方針であるのに、ビルマにはそれが
適用されない事が判明して、激しい抗議の嵐が起こった。これにより英国は、
1937年、ビルマにも同じ責任政府による自治を基本としてインドから分離
した。
イ)アウンサン他1名が、日本の鈴木教司大佐と共にビルマを脱出し、アモイ
に逃れるも、逮捕され東京に送られる。(40年) 41年、日本軍は鈴木大佐
(偽名南益世)に南機関を組織させ、先の2人に加えて15人を日本にて訓練。
対米開戦後の12月末、国内同志と合わせ30人でビルマ独立義勇軍を組織。
ウ)42年、日本軍が英軍を攻撃して4月末ごろまでに占領。南機関はビルマ
の即時独立を主張するも、司令部から鈴木大佐の北海道への異動命令が出て、
南機関は実質的に解体。――――ビルマ国軍創立。
エ)43年8月ビルマ独立宣言。首相はバーモ博士。国軍司令官アウンサン将
軍。この年の11月に、アウンサンは独立後の日本軍の扱いに不信感を持ち、
英軍に日本からの離反する旨の親書を出す。
オ)44年8月、アウンサンらは、密かに共産党・人民革命党らと「反ファシ
スト人民自由連盟」を組織。
カ)45年3月、抗日武装蜂起。ビルマ国防軍は日本軍に対して反乱を起こし
てイギリス軍の指揮下に入る。
以上の流れをみますと、必ずしも渡辺氏のいうように止むを得ずイギリスにつ
いたということでもなさそうです。戦後(81年)、ビルマは独立に際して功績
のあった日本人を讃えて、それまで自国民を含めて誰にも授与していなかった
アウンサン勲章を7名の日本人に授与していますが、鈴木大佐の未亡人はじめ
全員南機関の人達だそうです。
また、バーモ博士の回顧録が出されているのですが、掴んだ人心を軍部の横暴
で失い、敵をつくっていくことが書かれてらしいです。ビルマ独立に果たした
日本人の功に、いまだもって恩義を感じているということですが、日本軍に、
ではなさそうです。
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= まだまだ続きます =
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