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坂の上の雲を! ――――――――――― by 紋起さん
┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」

大東亜戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦、と、いろいろな呼び方でいわれて
いる、 OJIN の年齢でいえば父親達が戦った戦争。今まで、自虐的な論、その
逆の論、を数多[あまた]目にしてきましたが、何故かいつも気持の中にひっか
かるものを感じていました。

けれどもようやく、そうしたモヤモヤを払い除けてくれる論に巡り合うことが
できました!「せいろん談話室」のテーマ「あなたにとって『大東亜戦争』と
は何ですか」の投稿123〜125、紋起さんの「負けないために1〜3」を
読んで、今までモヤモヤしていたものが、スーッと晴れていくような気がいた
しました。そう!これだったんです!

あの戦争を解きほぐして「普通の国への転進、負けない国への進化」へともっ
ていくための「負けた原因の究明と再発防止」について論じられたものを目に
できなかったために、スッキリしないモヤモヤがつっかえていたのでした。

└──────────

☆ 負けないために(1) ―――――――――――――― 2006/11/20

皆様の投稿を読んで、基本の基準が私のものと異なるので、そのことについて
述べたい。「賢者は歴史に学ぶ」というのなら「別冊正論」に提示されている
判断の基準は偏っているところが多い。

私の基準は「その見方が、日本民族のこれからの発展に役立つかどうか」であ
る。この基準でみると、自虐史観は日本の発展に役立たないものだと断言でき
る。
その一方、皇軍賛美史観も同罪だといえる。――――日本軍は立派だったとか
良く戦っただとかの評価は、敗戦の再生産しかしない。再び負けるシステムや
考えや行動を誉め称えて、日本の将来をどうしようというのであろうか。

大東亜戦争は義戦だったと書かれている。本当だろうか。開戦の詔に「東亜諸
地域を、欧米の植民地からの開放をする」などという言葉はない。―――事実
でも、インドシナはフランスの植民地であったが、日本が占領してもフランス
の植民地支配を認めていたし、(当時のフランスは友邦であったが、そのヴィ
シー政権の崩壊後もそのまま)←注↓)

マラヤ(イギリスの植民地)、東インド=現在のインドネシア:オランダの植民
地)は占領後日本の領土に編入←注↓)、フィリピン、ビルマには国民により
選ばれた政権があった←注↓)が、日本の占領後は独立から遠ざかったという
評価もあるように、東亜諸国(諸地域)を欧米の植民地から開放したという行動
は乏しい。
┌──────────「編集部補注」

出展元:帝国電網省 歴史再考 7.昭和18年の「東京サミット」大東亜会議

▽▼ フィリピン ▼▽
米西戦争(米国とスペイン)の際、スペインからの「独立」を認めるという米国
に騙されたフィリピン人が米国側に立って戦った。しかし独立は認められず、
結局、1897年、エミリオ・アギナルドを大統領に革命政府(第一共和国)が
樹立されたが、米国の圧倒的な軍事力の前に、革命政府は1901年崩壊。

その後、独立運動と、日本の勢力下にフィリピンが入るのを恐れた米国は19
35年、マヌエル・ルイス・ケソンを大統領に「コモンウェルス」=アメリカ
連邦内の自治領)とする。これはあくまでも「自治」であって、実際は米軍に
よる「軍政」。
フィリピンが真の独立を果たしたのは、開戦2年後の1943年。日本の支援
を受けたホセ・パシアノ・ラウレルを大統領に第二共和国が樹立されてから。
ーーーちなみに現在のフィリピンは、戦後の1946年に成立した第三共和国
にあたる。

▽▼ ビルマ(現在のミャンマー) ▼▽
1942年までイギリス連邦領。昭和16(1941)年、日本はビルマの独立
支援と援蒋ルート=中国・蒋介石政権への連合国からの物資支援補給路)遮断
を目的に「南機関」という大本営直属の特務機関を発足させた。

南機関=日本)は、英国領時代からの指導者バー・モウを中央行政府長官=首
相に相当)にして、1942年に軍政を敷き、翌年、バー・モウ長官を国家主
席=首相)としてビルマ共和国の独立を認めた。
その後、
日本から独立した「ビルマ共和国」は、日本敗戦の後に再び英国領となるも、
南機関らの援助により発足したビルマ独立義勇軍(現在のビルマ国軍の前身)を
率いるアウン・サン将軍らの奮闘で、1948年、ビルマ連邦社会主義共和国
として完全独立を果たす。現在でも、ビルマ国軍のパレードは「軍艦マーチ」
で始まる。
└──────────

もし義戦ならば、日本が欧米を駆逐解放した時点で大東亜会議を行っているは
ずであり、敗戦が濃厚となった昭和18年11月に開くはずがない。

┌──────────「編集部注:大東亜会議」

出典元:ウィキペディア(Wikipedia)フリー百科事典
1943(昭和18)年11月5日〜11月6日に東京で、当時のアジア諸国の
国政責任者を招請して行われた会議。大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜
宣言が採択された。
▽▼ 参加した国 ▼▽
「日本」内閣総理大臣東条英機
「中華民国(南京)」国民政府行政院長汪兆銘
「満州国」国務総理大臣張景恵
「フィリピン」大統領ホセ・ラウレル
「ビルマ」」内閣総理大臣バー・モウ

▽▼ 代理参加 ▼▽
「タイ」の総理大臣ピブーンソンクラームは、戦前より独立国であったタイが
日本の傀儡政権とみられがちな満州国、南京政府、また、日本軍進攻によって
初めて独立宣言をなし得たフィリピン、ビルマと同列に扱われることに不満を
表明、日本側の度重なる慫慂にも関わらず、ワンワイタヤーコーンを代理参加
させるにとどまった。

▽▼ オブザーバー参加 ▼▽
「インド」自由インド仮政府首班チャンドラ・ボース

▽▼ 参加できなかった地域 ▼▽
「マライ」1943年の「大東亜政略指導大綱」は、同地域を「(大日本)帝国
領土」と位置づけていた。
「インドネシア」同じく同地域を「(大日本)帝国領土」と位置づけていた。
「仏領インドシナ」この時期、日本は仏ヴィシー政権を承認しており、同地域
は、ヴィシー政権の植民地統治機構を維持したまま日本軍が駐留する、という
微妙な関係にあった。

――― この会議は、史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われたもので
あり、人種(差別)主義の見地からすれば、そのこと自体への歴史的評価は高い
といえる。(人種平等の観点からすれば、白人のみの会議も黄色人種のみの会
議もracismに基づくものといえる)

「それまでの、植民地対宗主国の主従関係にとらわれたものでなかったため、
会議はきわめて和やかに進められ、一家族の集会のようであった」という回顧
もある一方で、タイ代表ワンワイタヤーコーンが、その演説にあって、大東亜
宣言案への修正提案が拒絶されたことへの婉曲な批判を行い、またフィリピン
大統領ホセ・ラウレルが、インドネシア代表が会議に参加できなかったことへ
の不満を述べるなど、それなりの緊張感を伴った国際会議であったとの分析も
ある。
└──────────

しかも、この時期に開催したのは、当時陸軍大臣の板垣征四郎に、石原莞爾が
満州事変当時自分の上官であった誼[よしみ]で強く薦めて開いたといわれてお
り、首相の東條はそのような意図を全く持っていなかったそうである。
(東條は、満州国でも多民族が協力し合うようにと石原が組織した5族協和を
謳う協和会を無視するような行政をおこなったように、支那人・満人を蔑視し
ていたともいわれる)

確かに、大東亜戦争後にアジア各国は独立をした。中には、旧日本軍の軍人が
そのまま残留し独立戦争に助力することもあったし、日本が欧米を駆逐したこ
とが独立戦争成功の自信にも影響しているだろう。

しかし、大東亜戦争後に続々と独立できたのは、日本の占領が宗主国の統治の
空白を生じさせたこと、日本の敗戦、そして武器の入手が可能になったこと等
が大きいのではなかろうか。

有色人種が白人に勝るとも劣らない事は、日露戦争で十分に示し得ていたし、
敵に対する礼儀や対応の端正さは世界的評価も高く、非白人種は自信を回復し
ていたはずであり、逆に、その評価を大東亜戦争では貶めたぐらいである。

とんでもない例で恐縮だが、福岡市職員が飲酒運転をして子供3人を死亡させ
た事故以降、日本中で飲酒運転撲滅のキャンペーンがなされるようになった。
このことを、もし、件の福岡市職員が、自分のお蔭で飲酒事故撲滅の機運が高
まった、それらの動きは私の功績だと言ったら、諸兄はどうコメントするので
あろうか。

私達の先輩は、黒人人権運動のキング牧師のように、崇高な目的で戦争をやっ
たのではないが、さりとて自虐史観のいうところの、どす黒い欲望で戦争を始
めたのでもない。ただ、狡さのない国で、罠に嵌[はま]っていったという形で
開戦に追い込まれたのだと思う。勿論、自存自衛の戦争であったのは正しいが
避け得ない戦争であったとも思えない。

とすれば、罠に嵌っていった愚を、何よりも教訓としなくてはならない。また
義戦を戦った崇高な民族であったと祭り上げる必要はなく、ーーー逆に開戦時
に、義戦とすべき「詐」が全くなかったこと、を教訓として引き出したほうが
今後の為になると思う。

東亜諸民族の協力を引き出し、強大国であるアメリカを多勢に無勢の立場にす
る狡さが欠けていた――今も欠けている――ことを肝に銘じるべきだと思う。

                      = 3回連載の1/3 =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
▽
「せいろん談話室」の、テーマ「あなたにとって『大東亜戦争』とは何ですか」より、紋起さんの投稿「123〜125」を転載させて 頂きました。
┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ この記事に対する賛否のご意見。 ┗━┛
┌────────――「jimusannさん」男性@四十代@会社員@鳥取 ┌-------- 有色人種が白人に勝るとも劣らない事は、日露戦争で十分に示し得ていたし、 敵に対する礼儀や対応の端正さは世界的評価も高く、非白人種は自信を回復し ていたはずであり、逆に、その評価を大東亜戦争では貶めたぐらいである。 └-------- はじめまして。ここの記述には疑問を感じました。 日本が日露戦争でロシアを破った事実は、欧米の植民地にされていたアジアに おいては、少なくとも庶民レベルでは全く知られていないと思います。たとえ 一部のインテリや独立運動指導者の間などでは常識であっても、庶民レベルで は知られていなかった。ーーー今のように、テレビもビデオもインターネット もなかった時代のことですから‥‥。 例え庶民レベルで多数の人が知っていたとしても、それは遠い世界の出来事で あって、自分らとは何の関係もないことである、と思っていたはずです。そこ に日本軍が攻めてきて、神のごとく強い白人を簡単に打ち負かしてしまった。 ――――そこで東南アジアの人々は、非白人が白人を打ち負かすことは可能な んだと初めて知ったのではないでしょうか? 独立運動指導者が「白人をやっつけて、独立を勝ち取ろう!」と演説しても、 「白人に勝てるはずがないのに、何をバカげたことを言っているんだ」だった のが、日本軍進攻後には「日本人にできたんだから、俺たちもできるだろう」 と考えて、独立運動指導者のもとに馳せ参じる人々が出てきた。これは妥当な 推論だと思います。 人間誰しも、絶対に不可能だ!と思っていることには挑戦しないものです。し かし、可能性はある!と分かれば挑戦することは、馬鹿げた行為ではなく勇気 ある行動になるのです。 確かに、日本の行動がアジア解放の聖戦だ!という主張は無理があると思って いますが、白人の侵略を討ち懲らすことは可能なことなのだ!とアジア人に教 えたことは功績だと思っています。
└────────── ┌──────────「紋起さんから」
日露戦争に日本が勝利した事は、アジア人にとって衝撃的なことであったよう です。 よく引用されるものですが、マレーシアの前首相マハティール(1925〜)の 談話です。「やがて日露戦争における日本の勝利は、世界の有色人種に大きな 自信を与え、植民地解放運動が昂揚していく」ーーー彼は、日露戦争時には生 まれていないので先達から聞いたのでしょう。 また、インドの初代首相であるネール(1889〜1964)は、その著書でこ う言ってます。 ┌--------「父が子に語る世界の歴史」 アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に大きな影響を与え た。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したこ とがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そして大人が、同じ感激 を経験した。 ヨーロッパの一大強国は敗れた。だとすればアジアは、そのむかし、しばしば そういうことがあったように、いまでもヨーロッパを打ち破ることができるは ずだ。ナショナリズムはいっそう急速に東方諸国に広がり、『アジア人のアジ ア』の叫びが起こった。 └-------- そしてガンジーのひ孫の方も、ガンジーは日本が日露戦争に勝ったことに感動 したと伝えています。 この後に関して、ネールは同じ著書で ┌-------- 日本のロシアに対する勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、小躍りさ せたかということを我々は見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的 帝国主義諸国のグループに、もう一国を付け加えたにというにすぎなかった。 その苦い結果を、まず最初になめたのは朝鮮であった。 └-------- と書いています。 マレーシアの中学校の教科書には、 ┌-------- 日本の東南アジアの占領には、2つの謳い文句があった。 (a)アジア人のためのアジア (b)北アジアの偉大な国々と共に独立する。 アジアの独立は、東南アジアを植民地にしている西欧を挫くための日本の約束 であった。しかし、支配している西欧に日本が取って代わっただけであった。 └-------- しかし、大東亜戦争がアジア各国の独立に与えた効果として、マハティールは ┌-------- 決定的な心の変化が起きたのは、日本が降伏して英国軍が再び戻ってきた後で ある。日本敗戦、英国の統治復活の報に『日本占領時代の物資の不足から解放 され、これで生活が元のように楽になる』と歓迎したが、期待に反して英国軍 が行ったのは、戦前以上の植民地支配の強化だった。裏切られた思いでいっぱ いになった脳裏に涌いてきたのは、アジア人としての自覚だった。 └-------- と述べています。 マレーシアの中学の教科書では、民族主義精神の広がりとして「日本の占領以 前では、国民は英国がマラヤを外部の脅威から守ってくれると信じていたが、 日本に敗北することでその信頼は崩壊した。このことで、マラヤ市民に民族主 義的覚醒をもたらした」と書き、日本の占領の影響では「民族的闘争の増大、 自己統治の自信、共産主義イデオロギーの拡散」(独立に関連する部分のみ)な どを挙げている。 これらの他に、現地人に軍事教練を行った事は革新的なことであった。西欧は そういう訓練をすると自分達にその力が向かってくること思っていたからであ る。 以上のように、「日露戦争の日本の勝利は、アジアの人達に勇気と自信を与え た。また、大東亜戦争での日本による西欧勢力の駆逐そのものよりも、副次的 な事象がアジアの人達の独立を成功させた」といえるでしょう。 └────────── ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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