☆ インド編(4)「バラナシでの或る一日(後編)」 ―― 2002/01/02
by 藤田健さん
インドでは、メス牛はミルクが出るので飼われているが、オスは牛車を引くぐ
らいしか使い道がないのでよく棄てられて野良牛となるらしい。神様なので、
殺して食べるわけにもいかず、野良牛はチョッと町の厄介物だ。
ーーー旅行者の目は楽しませてくれるけど。(^^;
川辺にある火葬場に寄ってみる。薪を組み上げた上に、布に包まれた死体を乗
せて火をつける。近くには、焼け残った死体を食べようと野良犬がびくつきな
がらウロついている。しっかりと灰になるまで焼いてもらえるかどうかは薪の
量に左右される。そして当然支払う金額によって薪の量が違う。死ぬ時まで貧
富の差は付いてまわる。
それでも、ガンガーに流してもらえるだけで死んで逝く人たちにとっては本望
だろう――――。
死体は、焼け始めると筋肉が収縮して時々動く。それを、よく焼けるようにと
係の男が棒で突っついたりひっくり返したりする。・・死んでしまえば人間も
あっけないものだ。有名な焼き場のあたりは、親戚縁者・なんとなくたむろっ
て居るインド人たち・観光客・そして焼くのを待っている次の死体などで混み
あっている。
火葬場を見学していると、見物料を払えといって地元のチンピラがすごんでく
る。確かに、葬儀が観光の対象にされているようで、火葬を見学する行為自体
に問題を感じたりもするのだが、葬儀に関係のない奴が葬儀を飯の種にしよう
とするのもどうかと思う。
ガンガーの川辺から対岸を眺めていると、まるで向こう岸は(仏教でいう)彼岸
のようだ。そしてバラナシでは、対岸の事を不浄の地と呼んで誰も近づく者は
いない――――。
乾季と雨季では水位が8mぐらい違うガンジス川は、その川幅も季節によって
倍以上変わってしまう。乾季には、対岸に幅数百メートルの広大な白い砂地が
出現し、その向こうには所々に木が生えている草原があり、草原をさらに突っ
切ると最下層の人たちの住む村がある。
そこは、街の近くとはとても思えないような自然に囲まれた場所だ。その村ま
では、川原から歩いて30分ほど。バラナシの街からは全く見えない。
その対岸に、ボートで渡ってみる。川幅は乾季でも300mほどはあろうか。
川の中央は意外と流れが速く、渡るのに時間がかかる。運が良ければ河イルカ
に出会えることもある。
対岸に渡ってみると、驚くほどの静寂が待ち受けている。人っ子ひとりいない
広大な砂地。そこから今渡ってきた対岸の街を見やると、まるで蜃気楼に浮か
ぶ幻世のようで不思議な感覚だ。あの街の中で、騙し騙されの壮絶な生存競争
が繰り広げられているかと思うと、あたかも現世こそが地獄でこの静寂な不浄
の地こそが聖なる彼岸の地ではないかと感じられる。
川原を少し歩いたら、川に浮いているまだ若い男の死体を見つけた。水でパン
パンに膨れた死体に犬が食いついているのだが、なかなか皮を食い破れないで
いる。その犬を遠巻きにして、禿鷹が隙を窺っている。ーーー犬もおちおち食
べてはいられない。
この若者は、どうして死んだのだろう。事故か、はたまた殺されたのか。今ま
で、どんな人生を送っていたのだろう。いろいろな事を想像する。死んでしま
えば肉体はただの肉片となってしまうという厳しい現実を、否が応でも思い知
らされる。
夕方、少し涼しくなってきたので街へ戻り、また川辺のチャイ屋に寄ってチャ
イを飲む。ガンジス川を眺めながら一日の出来事などを思い出していると、顔
見知りの旅行者が通りかかる。
バラナシでは、川沿いを誰もが散歩するので、しばらくチャイ屋にたたずんで
いると誰かしらと出会うことになる。お互いの今日の見聞などを話したりしな
がら川を眺めていると、静かに時間が過ぎていく。夜のとばりが降りてくる頃
暑さで死んだようになっていた街に、また活気が戻ってくる。
夜7時、久美子ハウスの夕食の時間だ。
夕食が終わると、宿に泊まっている旅行者達とまた夜中まで語り明かす。イン
ドでは、日本との違いに驚く事が多いので話題の尽きることはない。それに、
夜になってもレンガ作りの建物は熱気を帯びていて、暑くてとても眠れない。
ただ、気ままな長期旅行者の我々には時間だけは幾らでもある。
こうしてバックパッカーの、ありきたりの一日が過ぎていく。
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‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐人間は、必ず誰もが死んで逝く。
だから、人の死とはとても身近にある、ありふれたもののはずだ。だが、実際
には日本の日常生活の中では死は忌み嫌われて遠ざけられている。更に現代の
日本では、死期が近づくと病院に入院するのが一般的で、なかなか普段死の実
感を感じられる場に行き当たらない。
それは、我々が普段食べている牛や豚についても同様である。あの肉も、当然
少し前まで生きていたものなのだから、屠殺される瞬間があったわけである。
しかるに、その現場をたとえ映像を通してでも見た事のある人が果たしてどれ
だけいるのだろうか。
それは言い換えれば、見たくないものから目をそらして生きている。臭いもの
には蓋をして気付かぬ振りをして生きているともいえるのではないだろうか。
そのことは、命の大切さが分からないまま大人になってしまう若者や、年老い
ても死に対する覚悟がいつまでも持てずにいる老人たちともつながっているの
ではないだろうか。私には、そんな気がしてならない。
それに比べるとインドの人々は、死を必要以上に恐れてはいないような気がす
る。なぜなら、彼らにとって死はありふれた日常の出来事であり、また、ヒン
ドゥー教において現世とは、あくまで通過点であって、死の後には来世が待ち
受けているのだから。(それは仏教でも同じなのですが)
バラナシはそんな生と死について深く考え込ませてしまうような場所である。
= おわり =
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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